白い鳩【物語】
真夜中の住宅街をふらふらと歩いていた。
お風呂に入って髪も乾かし、洗濯したばかりのパジャマを着て、あとは寝るばかりだったのに。
寝室で先に寝息を立てている夫の背中が、規則正しく結んで開いてしているのを眺めていたら、私はいなくなっても大丈夫な気がした。
やっとこさ涼しさを感じられるようになった九月の夜風。秋の虫がもう鳴いていた。
八年前、結婚して遠いこの街へ引っ越してきた。新生活を始めて間もない頃、実家の猫が亡くなった。
人類を含め地球上の全生物の中で最も愛する存在だった私の猫。
硬くなった猫の体を抱きしめ、動物霊園で火葬してもらい、白いお骨になったあとも、まだ愛おしかった。
猫を埋葬して実家から戻ってきた夜、私はひとり、発作的に夜の住宅街へ飛び出し、あてもなく彷徨っていた。
このまま川で溺れてもいいし、歩道橋から身を投げてもいいと思っていたが、想像という魔がさしても実行に移す勇気はなかった。自分もきちんと天国へ行かなくちゃ、あの子と再会できないという考えが、私を引き留めていたのだと思う。
夫との間に子供はいない。作らなくてよいと言われた。
これで、猫が私の子として生まれ変わってくる線もなくなった。
夫に気づかれないよう気づかれない時間帯に家出したのはそのとき以来だった。
彼との間に何か特別なことがあったわけではない。よくある馴れ合いで、お互いを傷つけるような言葉の応酬はある。結婚記念日も忘れられているけれど。
数時間前、保護猫を譲渡する番組を見ていたら、うちの猫にそっくりな子がチラッと映し出されて、もしや、もうそちらで生まれ変わってしまったのか? 今世は私の子にはなってくれないのか? などという救いようのない考えが降りてきた。
ペット禁止の賃貸マンションから脱け出せない我が身を恨めしく思った。
真夜中はおっかない。おっかなくて、心地好い。
黄泉の国への扉は、案外こんな住宅街で口を開け、彷徨える魂を待っている気がするのだ。
歩いている間に、いくつの死骸を見ただろう。
動かなくなったアブラゼミ、車輪のあとが痛々しいカマキリ、交通事故に遭ったハクビシン。
ひとつひとつの肉体にビクッと飛び上がり、深呼吸して手を合わせる。
ときどき死の幻想に安らぎを重ねていた自分の言動を恥じる。
精一杯生きようとするものにとっての死は……
駄目だ。私など語る資格もない。
救急車のサイレンが向こうの道路で鳴り響き、パトカーのサイレンもあとに続いた。
この真夜中の徘徊を誰かに中断される前に、そろそろ自分で終わりにしよう。
来た道を戻るのも躊躇われ、ふだん通らない畑脇の細道を入った。ここを歩くのははじめてだ。一応、舗装はされているが、人と自転車しか通れない道幅である。
灯りはポツンポツン。次の電灯までが長いので、インターバルが黒く沈んで不安になる。
道の中程に達したとき、灯りの落ちた地面に生き物の気配を感じた。また死骸だったらどうしようと緊張が走る。
ゆっくり近づくと、白い鳩がぺちょんと平たくうずくまっていた。逃げる素振りはなく、小刻みに首もとが震えている。
そっとしておくのが正解だ。人間の臭いをつけてはいけないと何かで聞いたことがある。なのに私は、その鳩をそぉっと両手で掬い上げていた。
「あたたかい」
鳩のお腹の柔らかい羽毛が触れて、体温が伝わってくる。
白い鳩はすうっと目を閉じ、首と肩を揺らした。
「私の猫を知ってるかい?」
鳩のぬくもりは手のひらからお腹へと伝わり、クルクル小さく震えた。私の猫も、よく喉をゴロゴログルグル鳴らして頬をこすりつけてきたっけ。
弱々しいスポットライトのような電灯に照らされながら、私は猫の感触をはっきりと思い出していた。
鳩を抱きながら猫の毛並みを思い出すなんておかしな話だが。寄り添えるならいつまでも寄り添っていてほしい。
涙が零れそうなのを必死に堪える。
私の灰色に濁った涙が落ちたら、白い鳩が穢れてしまいそうだから。
「鳩くん、長生きせえよ」
私はたしかに真夜中の住宅街を歩いていた。
なのに、朝だった。
あれからどういうルートを辿って、いつの間に自分の布団に入って眠ったのか、まったく思い出せない。
でも、あれは決して夢ではない。白い鳩のぬくもりと感触が、まざまざと手のひらに残っている。
トーストに目玉焼きをのせる。サラダを食べる。野菜ジュースを飲む。
夫が歯磨きしながらテレビの前に立つので、上半身を横に倒して朝ドラを観る。
私は生活している。
日常を生きている。
私の猫も白い鳩も、私の近くで生きている。
~おわり~
最後まで読んでいただき、ありがとうございました😺🕊️
過去に、これとは別の「白い鳩」のお話も書いております🍀
召し上がっていただけましたら幸いです😽