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UNTITLED REVIEW|企業人のパトス

これまでも「定年退職」という言葉を漠然とイメージすることはあった。だが自分の定年退職を明確に意識したのはその日が初めてだったかもしれない。会社が在宅ワークを推奨するようになって久しい。最初は慣れない自宅での仕事に戸惑ったが、満員電車に揺られてのストレスフルな通勤や言葉を慎重に選びながら部下に指示を出さなければならない時代へのもどかしさから一旦解放されてしまうと今さら元々あった日常に戻れない。妻と会話する時間も増えた。自宅で仕事をする日は彼女と一緒に昼食を取るから自ずと話す時間も多くなる。僕の話が愚痴の色を帯びてくると彼女は口癖のように「もう少しの辛抱だから」といつも返す。そのひと言でふと我に返る。そうだ、あと少しで僕はこの苦行から解放される。そう思うと少し気が紛れた。ある日、彼女は続けた。寂しくなるんじゃない?と。それはないな、とその時はやんわり否定したが本心は自分でもわからない。

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およそ20年ぶりとなる外国為替市場の円安水準に後押しされた、海外を主戦場とする日本企業の業績が好調とマスコミが連日報じている。当の企業も悪びれる様子もなく通期の業績予測を上方修正するなどして得意げだ。僕はこの喧騒に違和感を禁じえない。新聞やテレビが持ち上げる彼らは2008年に起きたリーマン・ショック後の近年で最も深刻な景気後退に陥った時期に、業績悪化の理由を一時70円台まで進んだ円高のせいにして多くの社員に犠牲を強いた。現在、過去最高益を出している企業のすべてが過去最高の努力をしたわけではないのだ。その多くが極端な円相場の恩恵を授かったに過ぎない。翻って1ドルが80円前後で推移していた時代。円高という津波は僕らの努力をいとも簡単に呑み込んだ。気づいたときには自分たちの力でどうにかなるレベルを超えていた。只々、無力感しかなかった。この機に乗じて若返りを図ろうとする会社の中で僕に残された道は、早期退職制度に応募するか、都落ちを甘んじて受け入れるしかなかった。外の世界でやっていく自信を持てなかった僕は、不本意な仕事を与えられることになっても当時の収入を維持できる後者の選択肢に手を伸ばすことを考えていた。

これまで散々いい思いをしてきたのだから若い人たちに道を譲るべき。当時置かれていた状況を妻に話した時にこんな言葉が返ってきた。彼女はこうも言った。「それに、人をモノのように扱う会社なんて辞めたほうがいい。嫌な仕事を我慢してまで残る価値のある会社じゃない」。正直なところ、その答えに驚きはしたが、心の奥底にはどこか安堵する自分がいた。たぶん、僕は下りたがっていた。今にして思えばそんな気がする。かくして僕は会社を辞めた。しかし、在職中に進めた工場移転計画によって多くの従業員とその家族の生活基盤を根こそぎ奪ってしまったことに対する自責の念は今も消えない。計画中止を役員に進言したが止められなかった。逆にそれ以降、冷遇された。でも、抗ったことへの後悔はなく、むしろ自らの意思をあのとき表明したからこそ、辛うじて現在も人としての体裁を保てているように思う。

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いつか読もうと思っていた小説をやっと読み終えた。実際に起きた航空機事故を背景にした物語。この本に興味をおぼえたのは前職でがむしゃらに働いていた頃。書店のフェア台に文庫本が平積みされていた。そんな時に世界規模で金融危機が拡大し、近年で最も深刻な景気後退に陥った。そこからは嵐のような日々だった。経営層からは昼夜を問わず携帯電話に連絡が入る。過度なストレスや過労によって顔面神経麻痺にもなった。本をゆっくり読む時間など持てるはずもなかった。この物語はそんな時代に僕を連れ戻した。それに、トラウザーズを履いたときの腰回りの窮屈さが気になって再び始めたジョギングだが、成人後では最軽量となる体重まで体が絞れたことで目標は達成されたはずなのに今も走っている理由がなんとなくわかった気がした。

この物語についての感想の多くが、乗客・乗員を合わせ520人もの犠牲者を出した史上最大の航空機単独事故にフィーチャーする。でも、僕が感じたのは企業人の悲哀だ。決して抗うことのできない存在を前にしてどこまで自分を貫くことが正しいのか?や、あきらかにプロとしての力量が不足する後進への想いを飲み込まなければならない歯がゆさなど。ある意味で企業人は制約の中に生きている。だから、己の裡の制御不能な他者を必死に宥めようとする主人公の気持ちに強烈なシンパシーを抱いた。また、苦悩し続けた登場人物たちがむかえる現実として許容できる範囲内での最良の終幕も心を打つ。僕の知る限り、人生にマンガのような奇跡は起きない。だが、悲劇ばかりじゃないことも事実である。それにしても、小説を読んでいる途中に涙したのはいつ以来だろう。記憶を辿ったが思い出せなかった。


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