ロレ山

VTと脳ミソ大好きおじさん それ以上でも以下でもありません コメント大募集! 意見を! 意見をください! プロフィールの写真は自分で撮りました

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最近の記事

幽夏レイの夏

幽夏レイを知ってまだ数ヶ月だけれど、彼女の歌の作品性には驚かされる。 彼女の歌を聞いた第一印象はとても聞きやすい、というものだった。 1.作品としての歌録音された歌を聞く時に問題になるのが、送受間におけるテンション差だ。 こちらのテンションは上下するのに、作品としての歌は常に一定になる。 だからどんな好きな歌でも、時折耳障りに聞こえる事すらあるわけだ。 となると、作品としての歌はニュートラルであるのが聞きやすいわけだが、ただ平板な歌というのは聴き応えがない。 その点で言えば

    • ViANKiEの歌声に関する所感

       以前に記してから一年を経てViANKiEに対する印象は大分かわった。  ViANKiEとしてTwitterに綴られる日々の事や、そこでの様々な交流はViANKiEの存在の解消度をあげているのは間違いない。  だがなんといってもこの1年で彼女はかなりの数の歌を積み上げてきた。 彼女の歌は Vとして活動する以前からも会わせると彼女の歌は、この一年でかなりの数になった。  私見ではあるが、初期に上げられた歌は落ち着いた感じの曲が多かったように思う。  その時に私は彼女の歌に詫び

      • Universalな事

        ほんのちょっと前までVtuberという仕組みは ユニバーサルに人を救える仕組みだと思っていた 当然そんなこともないのはわかっていたけど そうでない人の事など考慮の外だった 例え大麻を無料で望むだけ配給するシステムが あったとしても全員が幸せになるのは不可能だ 大麻にもアレルギーがあるからね それは想定していたんだけれど そういうある意味では必然的な不可能ではなく そこから意図的にこぼれてしまうことがあるなんて思わなかった この界隈にいると常に変革と受容と拒絶を 凄まじいスパ

        • ドールとヴァーチャル

          あなたにとって、ドールとはなんですか? と問われたならば 「私の内部にある美しさへの憧憬の表象」 と答えるだろう。 1.ドール愛好者達 ドール愛好者のそれに対する態度は大まかに言って二つに分けられる。 ウェットと呼ばれる人はドールを人のように扱い、 それに対して様々なロールを振り分ける。 もう一つ、ドライと呼ばれる人達はドールを物として扱い、 自己の外へおく。 私自身はウェットよりのドライとでも言うべきか、 「ドールと自己は別体であるが行為により関係が構築されている」

          Virtualがもたらす意味:ドローンとVTuber(前編)

           Vtuberが多くの耳目を集める中で、1つ無視できない問題に直面しつづけている。それは「Virtualでやる意味は?」という問だ。  これはVTという文化の成立初期から言われ続けている事ではある。概ねの場合は捨て置かれるか、あるいは「Realでやる意味は?」という対偶的な反論に終始している感があり、誰もが納得しうる明確な反論や意義の証明を出せていない(私の知る範囲では)。  面白いことに誰もがVirtualである事に面白さや意味を感じているにも関わらず、誰もがそれを言語化で

          Virtualがもたらす意味:ドローンとVTuber(前編)

          ガンダムおじさん、ガンダムを語る

          この子の歌うRE:I AMが良すぎて、ふとユニコーンについて考えていました。 まったく上の子とは関係のない話なのですがね。 この文章は読まなくてもいいけど、↑は聞いて行ってくださいね。 血まみれのユニバーサルセンチュリー実際の所、ユニコーンが出るまで見落とされがちだった点がありました。 それは『一年戦争の前も争いはあった』という所です。 それが分かるところが実は色々あります。 例えば、 『一年戦争前から圧倒的な軍備があった』 『地球上の様々な場所に大規模な軍事基地が存在した

          ガンダムおじさん、ガンダムを語る

          ViANKiEの歌声に思う

          私がこの子の歌に気づかされたのは偶然だった。 YouTubeが偶然選んだこの曲を聴きながら私は夜の街を歩く。 その時、ふと頭に一つのイメージが結ばれた。 裕福で、若く、美しい女性。彼女は家に帰り、シャワーを浴びる。 先ほどまでの喧騒を離れ、一人になると思うのは本当に欲しかったもの。 誰もがうらやむような彼女が実はみんなと同じように満たされていなかったなんて誰が思うだろうか。 自分には一生縁のないそんな女性の抱える苦しみ、 何よりもそれを綺麗だと思ったのは間違いなくViA

          ViANKiEの歌声に思う

          アザミさんはシンガーソングライター

          詩とは本来朗読されるものである。 歴史的にみても黙読が当然になったのは20世紀にはいってからである。 詩人とは自らその韻律を際立たせ、情感を込め、詩に情景を綴るものであった。 シンガーソングライターであるアザミさんの曲を聞いているとそんな事を思う。 彼女は自ら詩を書き、それを曲にのせ、歌う。 その言葉の鮮烈さたるや、詩の持つ力を私達に教えてくれる。 私は彼女の言葉に徹夜明けの空を見てしまう。 「マジカル不眠生活」、この派手な言葉はまるで白み始めた空のようだ。そして、てんでば

          アザミさんはシンガーソングライター

          漫画の80~90年代

          何故俺が価値観にこだわるか少し話す。 俺のオヤジは古い価値観で育ち、自分の価値観以外を認めないようなオヤジだった。 それでも俺が漫画読んだりすんのは諦めて邪魔したりはしなかった。そこは一人の趣味人として対等に見てもらっていたのかもしれないね。それでもどこかで俺はこの人とわかり会えないんだろうなーって思ってた。 それである時、俺が机の上に当時新刊だった銃夢6巻を置きっぱにしてでかけてしまった。 帰ってきた俺は洗濯物を取り込もうとベランダに出てふと俺の部屋を見た。そこには真剣な眼

          漫画の80~90年代

          AZ輪廻という体験が伝える物語

          序 果たしてAZKiさんを語る資格が自分にあるのか、 ということで迷っていました。 歌は全部聞きましたよ。 それでも問題は私は 彼女の歌や活動を真に理解できているのかという所です。 開拓者の皆様の熱い活動を目の当たりにしていたから なおさらそう思います。 だからあえて私は今回のライブに歌を聴き込む事以上しないで臨みました。 そこで果たして何を感じ取れるか、そんな人間を引き込める力があるのか。 偉そうに言うとAZKiさんを試したくなったのです。 「いのち」が伝えたものライブ中

          AZ輪廻という体験が伝える物語

          VT大好きおじさん、昨年を振り返り、新年のご挨拶をする

           本年中皆様には大変お世話になりました。私のFFにいらっしゃる皆様との交流は間違いなくかけがえのない宝であると強く思っております。  本当にそれは強く思っているところで、普段頭のおかしい事ばっかり書いてる変なとっつぁんを良くもブロックしないで居るもんだと皆様の懐の深さには驚かされるばかりです。  思えばTwitterも、noteもすべて今年0からスタートでしたねぇ。本当に凄いツールだなーって思ってます。  今年、noteに投稿したのは22件、月で平均すれば4位、初投稿は7/2

          VT大好きおじさん、昨年を振り返り、新年のご挨拶をする

          VTの価値、視聴者の価値観

          昔、ゲームをしているとしょっちゅう言われたよ。 そんな事してもなんの意味もないじゃないかってね。 だからそん時は言い返してたもんだ。 「俺は楽しいんだからいいじゃねえか」ってな。 そんな中学生の頃の思い出話。 価値観を思う 価値観ってのはとても大事なもんだ。  そのために俺達は生きたり死んだりする事もある。  その価値観にも重さや強度があるって考えたことはあるかな?  簡単に言うと「重さ」ってのはそれがどれだけ 集団から認められているかってこと。  例えば歌舞伎や相撲。そう

          VTの価値、視聴者の価値観

          言葉のパワーの力を過信せよ

          文章は絵に劣る、 文章は音楽に劣る、 文章は動画に劣る。 SNSを見てそんな劣等感を抱ている そこのあなた。 実は文章は他の何よりも全てに 優る凄まじい力を持つものなんだ、 ということをご存じないと見える。 汝、言葉の力を過信せよ。 かつてシャーマンは 言葉で世界に意味を与えた。 王は自らの権威を言葉で正当化した。 その王の権威は 社会学者の言葉によって革命された。 そして哲学者は世界を語り、 科学者は世界を説明する。 言葉は何よりも人を動かし 世界をも変える力を持つ。

          言葉のパワーの力を過信せよ

          Virtual Things という俺しか使わない略称について

          実はnoteを開設したときにまず書こう書こうと思って スポーンしてた事がありました。 それは俺が文中で再三にわたり使用しているVTという言葉です。 何回か軽く説明した事はあったけど、 今ここでその言葉を検討/再定義しましょう。 1.バーチャルさんがいっぱい 今では9000近くいるとされるVT界隈。 被っている場合も多くありますが、 独自のバーチャルなんたらを名乗っておられる方もよく見かけますね。 んでまあ色々自分で呟いたり書いたりする時にちょっとアレだなぁ、 と思って包括的

          Virtual Things という俺しか使わない略称について

          終わりの形

          ↑に大事な事を書くのを忘れていました。 それは すべての終わりが悲しかったわけじゃない ということです。 愛されて終わったコンテンツは 未だにその子供達の姿を見る事ができます。 忘れ去られたコンテンツには 何もありませんでした。 でも、時折そんなコンテンツを思い出して 懐かしくなります。 書かなかったことですが、 私はゲーセンが街中に溢れていた時代を 覚えています。 今では一軒もなくなりましたが そこで沢山遊んだ事は忘れられません。 ゲーセン跡を見ると少し寂しいです。

          終わりの形

          憂われる界隈

          これほど未来を心配されるコンテンツって VT以外見たことがないんだよね。 それまでのコンテンツって消費され尽くし 飽きられていくものだった。 発展や進化を望む声なんてない。 ただ楽しむだけ。 勿論、二次創作という手段で 盛り上げるという事は あったかもしれないがね。 でも彼らはクリエイター側の存在なんだ。 刹那的にコンテンツを消費することこそが 娯楽という物じゃないかな? むしろマンネリ化こそがコンテンツとして 安定した姿だと思う。 発生→生産→般化→倦怠。 これがサイクルだ

          憂われる界隈