コロナ禍という日常を生きた人々へ―カミュ『ペスト』(宮崎嶺雄訳)
コロナ禍のとき、ものすごく売れた本で、その時は反骨心で読まなかったが、正直後悔している。ここに書かれている疫病禍の記述は、もはや何かの象徴や寓意、また虚構といった薄さではなく、実感の厚みをもって感じられるのである。弛緩した、けれども恐怖によって緊密になった時間への感覚、愛への途絶など、ウンウンと頷ける描写が間断なく綴られるのだ。滔滔と、かつ読ませる文章が続いてゆく。箴言も訓戒もさまざま、異なる立場から主張が入り乱れ、疫病下の混沌たる、陰惨たる有様が浮かび上がるさまは見事。そこを語り手は忠実に客観的に切り取ってゆく。医師、判事、神父、新聞記者、犯罪者、という様々な属性を持つ人物が、それぞれの在り方として、ペストという絶対的な悪への向きあい方を見せてくれる。
カミュの巧みさはどこにあるか、と聞かれれば、この小説の語り方であると言える。この小説のエピグラフには、デフォーの記述が引かれている。
持ってまわった言い回しだが、これはナチスへの言及と見てよいだろう。ペストという悪は、ファシズムという悪と図式的に投影可能である事は言うまでもない。だが、そこから一歩踏み込んで、この暗喩のなかでも暗めの文章が示すのはむしろ、ペストという病原菌がもたらす監禁状態を「表現すること」自体が、非常に価値を持っている事実である。監禁状態を表現するには、世界のあらゆる面における閉塞と停滞を描き切るという責務が発生する。たいへんに骨の折れる作業なのだ。
(そのひとつの試みとしての「天を搔きまわす殻竿」の表現は一考に値するだろう。あれは大変印象的だった。)
1940年代に書かれたにもかかわらず、現在にも鋭く共通する記述の多さに驚く。われわれは感染症というものに対して、ほとんどあの頃から変わっていない。テクノロジーが不安を和らげることはあっても、本質的にはあの頃と同じ問題を抱え、一様に隔絶されてゆく。もはや象徴ではなく、体験・実感として真に迫るひとつの人間の在り方が刻み込まれたフィクションが光っている。