#8 朝になる
ぼくの寝室が家の4Fにあって、両親が3Fで寝ている。ぼくは足音を限りなく消音するために靴下を履き、階下からそろりと上がってゆく。実家に帰省していると、そういうかぎりなく個人的なプロセスが懐かしくて、愛おしくなる。
いま、午前4時49分という時間。空が白んで、けれども街はまだ目覚めない。ぼくはこういう、大きな枠から抽象的な話を始めるのがすごく好きだとおもう。それは具体的な話をすることからの逃げだろうか。自分に能力がないことを直視したくないだけだろうか。
もう22歳になった。気がついたらそうだった、などとは言えないが、すごく早いことのように感じられた。学んだことは、自分に期待したことのほとんどは、成し遂げられていないということだ。大岡信の「青春」と云う詩には「あてどない夢の過剰が、ひとつの愛から夢をうばった」という一節から始まるように、ぼくの内面はきっと夢の過剰で満たされていた。それは夢見がちな青春にいまだぼくはとらわれ続けているということだろうか。そして、ぼくは夢を見続けていてよいのだろうか、と現実の状況との差異に息苦しくなる。こうなりたい、あれこれを勉強してこうありたい、と思うことも、きっと成し遂げられずに終わる。夢を見ることが大事という使い古されたメンタリティも最早薬効は切れている。
朝がくる。
眼覚めるとき、人間は殆どの夢を忘れる。そうなっているらしい。儚くて哀しくてけれども美しいメカニズム。けれども、たまに、覚えている夢がある。悪夢でも、奇妙でも、歪でも、なぜか憶えている。青春はそういう、明晰夢のような手がかりで、霧の中にある道標みたいなものだとおもう。ぼくはそのようにありたい。夢を、夢であったと笑いたい。それくらいに、現実と戦わなければいけない。
朝になる。