それでも、星を追う
全てのものが腐乱するような日曜日だ。冷蔵庫を開ける、意味はない。閉める。意味は生まれない。夜の底で冷たく絡まり合う洗濯物に手をつける。「四月は最も残酷な月」と詩人が言ったのを思い出して、生活は呼吸や心臓の動きのように、意識せずともここに在る、在ってしまうことに気がつく。もはや意味の発生しない最小の領域と単位で、在るだけの生活に慣れてきたところだ。遠い声がゆき過ぎる。遠い部屋に生きる人々が、同じようにして記憶の通路を通り過ぎる。
カーテンの隙間から一条、街灯のLEDが鋭く、室内の暗闇を突き刺している。それは彗星の軌道のようにも見え、部屋が天体全図にも見えてくる。分断しているその白は、変わらず一定の光度を保ち続けている。救急車か消防車か、男性の拡声されたぼんやりした音波がサイレンとともにがなりたてながら通りをゆき、缶の転がり続ける音がし、大声の外国語が近くなり、また遠ざかってゆく。
日々のことを書く。日記とか、思い出して書く、とかいう行為はおそらく、小説の対偶にある行為だ。それは想像して虚構を作り上げる可能態としてのテクストではなく、忘却に抗う現実に根差した記憶としてのテクストだ。もちろん、日記にも虚構は登場する。その日々の切り取り方や、日々の全てを克明に記述するのは不可能だ。しかしそれでも、書かれなかった日々は、記憶にも残されなかった日々は、そのディティールは、限りなく「存在しない」ことへと近づいてゆく。それはなんとなく悲しく、やりきれない。確かに生きた日々と、そこにあったくだらない時間、それでも一緒に生きた人々を、忘れたくない。天に輝く星々、都市の光害で見えなくなった無数の存在。忘れ去られてしまった光輝のことを、憶えていたい。
私はきっと、創作には向いていない。小手先の技術で俳句や短歌賞へ応募してみることもしてみたが、散文で世界やシーンを作り上げることが苦手だ。それはきっと、上に書いたような、私自身が記憶や過去に縋りつき、絡めとられて書いている人間だからだろう。過去を志向するテクストに、可能態の虚構は遠い極北に見える巨大な星のようなものにすぎない。
それでも星を追う。巨大な星も、こまごまとした無数の星々も。向いていないことも、やる。こっそり、じっくり向き合い続ける。書き続けるのだ。書くことにおいて、とても自由だ。それは厳しく、またのびやかな自由だ。
「それでも」という開き直りが好きだ。諦めたような、それでいて静かに燃えているような鮮やかな逆接。遠いところにある途轍もない自由、そこに手を伸ばす。手を伸ばし続けるために、この日々の、洗濯機の底の、濡れて絡まり合った洗濯物にも手を伸ばしてやる。生活から、連綿たる日々の意識から、模倣から、思いつきから、偶然から、友人の些細な一言から、通り過ぎる人間の仕草から、気になるあの子のひかる眼の奥から、痛みから、あるいは、消えて掠れている記憶から。全てのものが繋がるこの奇蹟をしずかに愛していく。