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「わたし」の輪郭をつくるもの
「外側の自分」と「内側の自分」について、もう少し。
私は自分には「核となる自分」というものがあって、それを守るように外側に「社会性を身につけた自分」が層を成してるようなイメージを持っていた。
でも、「本当の自分=自己」は必ずしも存在しなくてもいい、と知った。
じゃあ「外側の自分」だけしかないのか!と思ったわけですが。
「本当の自分」と「内側の自分」はイコールではないな、と思って。
「内側の自分」とは、一体何なのか。
それは、「外側の自分」と表裏一体のもので、むしろ、同じものなのかもしれない。
誤差のうちというか。
私の中では、「外側=社会性のある私」と「内側=素の私」だと思って、そこに差を見出してるけれど。他の人たちとの比較で見れば、その差は、誤差ぐらいの大きさでしかない。
例えば、「まじめな人」という特性について。
「外側の私」は、すごくまじめ。サボらずに頑張る。
「内側の私」は、めんどくさがりで、サボる。
そこに自分の「外」と「内」で線引きがある。
でも、他の人から見れば、やっぱり私は「まじめな人」で。もちろん、外側の私を見てるから、というのもあるけれど。私は内側を隠そうとするけれど。
たとえ、私がめんどくさがったり、サボってるのを見かけても、やっぱり私は「まじめな人」なのだ。
だって、その「まじめさ」の基準自体が、「ものすごくまじめ」だから。
私にとっての「まじめじゃない」が他の人の「すごくまじめ」に該当するぐらいかもしれない。
「気を遣っている」というのも、面白い特性というか、基準だなと思う。
私はきっと「気を遣いすぎている」。他の人から見たら。
で、私自身は「気が遣えなかった」と嘆くのだ。
自分で自分のハードルを上げている。
そのハードルの高さ(もしくは、低さ)自体が、その人の特性だな、と思う。
自分の中の線引きは、その線で分かれる内容に気をとられがちだけど。
結局、実際は、その線をどこで引いてるか、どう引いているか、なんだな。
その線自体が、他の人たちとの間で、どんな違いがあるか。
それが、「わたし」とか「あなた」をつくり出しているんだな。
そういう線が「わたし」の輪郭を描き出しているのかもしれない。