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「素の自分」を言語化してみる
素の自分、頑張らない自分でいるのは、ちょっと怖いと感じる。
けど、素の自分でいようとしている。
素の自分を、そのままでもいいよ、って受け止めようとしている。
素の自分ってどんなのだ?
素の自分
自由すぎる私。
ルールにしばられたくない。
ルールを自分でつくってしまう。
人の気持ちを考えない。
自分が楽しい、を優先してしまう。
人のことが気にならない。
自分が攻撃されない限りは、何でもいい。
ぼーっと考え込んでしまう。
興味のある情報を目にしたら、そのことばっかり追いかける。
広く深く、追いかけたい。
でもすぐに、違うことに興味をもつ。
そしてまた、その違うことを広く深く追いかける。
気がついたら、風呂敷を広げすぎる。
いろんな情報がとっ散らかっている。
でも、それが楽しい。
整理しなさい、片付けなさい、と言われると、
急に気持ちがしぼんでいく。
とっ散らかしてる瞬間が、とても楽しい。
ぴんっとアンテナが立つときがある。
心にわーっと愉しさがあふれる。
素敵なご縁に、またうれしくなる。
言葉にならない喜びがあふれる。
でも、人にはうまく伝えられない。
ただ、喜んでいる。
*
似た者同士で遊んだ
本質的に似た人がいっぱいいる状態だと、とても心地いい。
子どもも含めて、似たような人が10人近く集まって、一日、一緒に遊んだ。びっくりするほど楽しかった。
子どもたちも、最高に楽しんでいた。
なんでかって?
普段、人が集まると、「普通」を気にしないといけないところ、みんな「自由な人」ばっかりだったから。
無意識に感じてる窮屈さを、まったく気にせず過ごせた貴重な一日だった。
みんな、口をそろえて言う。
予想以上に楽しかった!!
*
その直前の怖さ
私、幹事っぽいけど、何も用意しなかった。
一応、みんなが連絡取れるように、仲を取りもったけど。本当にそれだけ。
誰かが、こうした方がいい?って言ってくれたら、それをお願いする。
私は何も具体的には考えていない。
全部、人任せ。
もっと、ちゃんと考えろ!もっと調整しろ!
(でも、しなかった。できなかった。)
そんな怖さがあった。
*
その直後の怖さ
あまりにも「素の自分」で一日を過ごせてしまって、それが怖かった。
人に迷惑をかけてないだろうか。
失礼はなかっただろうか。
考え始めたら止まらない。
でも、やっぱり、ここは、自分の楽しかった気持ちだけでいい。そう思うことにした。
楽しかったということを、しっかり言葉にして、みんなに伝えた。
自分がどうにもできないことで、悩むのはやめておく。
自分のがめつさや、自由さが前面に出てしまって、少し恥ずかしい。
でも、そこにいた人たちは、程度の違いこそあれ、共感できる人たちだったのかもしれない。
勝手に想像する「ダメだったかも」はある。
でも、それを目の当たりにはしていない。
*
素の自分で楽しい
結局、参加者のみんながみんな、最高に楽しかったのを確かめて、ほっとした。
「素の自分」でいようとすると、なんとも言えない「怖さ」に直面する。
でも、きっと。怖いけど、ほら、大丈夫だったよ!を繰り返してるのだと思う。そうしてるうちに、少しずつ、慣れてきてるのかもしれない。
そして、少しずつ、「頑張らない自分」も受け入れていっているのかもしれない。