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あとがき

この前載せた文章。


「普通」について、色々考えたもの。普通って何なのか。変わってるって、何なのか。


これは自分が高2の時の文章で、学校で出た課題のために書いたものだ。読み返したらかなり初歩的な文法ミスがあったので、あまりにも気になる部分だけ直している。句読点の位置とかそういうの。他にも色々と書き換えたい部分はあったけれど、それも含めて当時の文章ということで、他はほぼそのまま。ご了承ください。

学校の課題は、こんなものだった。



「何でも好きなことでかまわないから、自分の興味関心に基づいて、一つテーマを決める」

「それについて調べるなり仮説検証するなりして、論文にしてください」

「題材の条件は、特になし」

「以上!!」


かなり自由だった。


環境問題、ジェンダー、ファッション、サブカル、数学、化学、歴史……

とにかく何でも良かったので、好きなことを、好きなように、自分の趣味丸出しで論じることが出来る。書かなきゃいけない文字数は多かったけれど、楽しかった。どこまでも自由だったから。

校正を担当してくださった現代文の先生は、博識で、自身も色々とマニアックで、古代文字の意味を聞いても知っていたり、授業中の雑談で「オタク」という言葉の由来を高い語彙で説明してくれたり、物好きな生徒が先生の名前を使った小説を送りつけても「あなた方は本当に。何なんですかこれ、もう〜」と言いつつ、丁寧に添削してくれる。自分にとって、毎日「すごい!」が止まらない、「物知りで面白い大人」だった。関係無いけど、お誕生日が一緒で嬉しかった。

他の先生もそんなんばっかだから、創作意欲を止める大人がいなくて、我々のどうしようもないオタク度合いは深刻になる一方だった。先生達は誰しもが様々な価値観を持っていたけれど、生徒の趣味については共通して寛大というか、踏み込みすぎず、程よく無関心でいてくれた。それでいて、時々質問もしてくれる。そんな感じだった。


自分が書いたこの「普通」についての文章は、

「普通というものがどれほど不確かで偏見に満ち溢れた概念なのか」

「変わり者であろうとすることの大切さ」

その辺りを語ることで、画一化されていく世間に一石を投じるという、未熟ながらも「一高校生による世の中への警鐘」というつもりで書いた。分野は何になるんだろう。哲学?


個性や自分らしさという言葉が時めく昨今、こういう視点での議論は探せば腐るほどあって、もはや革新的とは言えないと思う。警鐘だなんて仰々しいもので、言ってしまえば「普通なんて無いんだよ」という考えくらい、令和の世界では目新しくも何ともない。

ただここで自分が言いたかったのは、流行論の二番煎じよりも、最後の一文だ。

何に関しても中立的でありたがり、大衆に届くことのない少数派の考えにも目を向けられる一面を持った「変わり者」でありたい。


普通でない存在ーーここで言う変わり者ーーになるということ、若くは意図せずになってしまうこと。本当は簡単なのに、自分はどうしてもそこへ突っ走る勇気が出ない。わが道を行くカリスマ的な存在の生き方を見ては、「ああ、あの人には敵わないな」と思う。ガリガリで栄養失調の画家が、誰にも目を向けられることの無い大傑作の完成と同時に、キャンパスの前で野垂れ死ぬ。死後も大して評価されることは無い。それでも彼は天国で、大満足な顔をしながらニコニコ笑っている……。そんな人生に憧れるけれど、自分はきっとその道を選べない。生きているうちに食いっぱぐれることが、誰にも目を向けられないことが、その可能性が少しでもあるだけで、怖くて寂しくて仕方ない。様々な葛藤を抱えながら、結局いつも人の多い方へと流れていく。

だからこそ、「自分は変わり者になるんだ!!」と言葉にして、マイノリティになることを許せる人間になろうと思った。自分で自分の背中を押せるようになりたい。進む先がたとえ少数派でも、怖がらない。きっと大丈夫だから。そんな思いを込めて書いた一文だった。

と同時に、先に書いた「書き換えたい部分」もここで、小数派の考えの枕に「大衆に届くことのない」と書いたことに少し「う〜ん……」と思っている。何様って感じ。書いた当時は全くそんなこと思わなかったけれど。

ここ数年で「寄り添う」という言葉があまり好きではなくなってしまった。あまりにも響きが優しくて鼻につくというか、寄り添えているかなんて結果でしか無いでしょ、と思うようになったから。

「あなたに寄り添います」などの断定的な使い方をしていた過去の文章を見ては「無理だよ」と思う。自分がしてるつもりの支援だの教育だのが間違っている可能性というのはどんな時にでもあって、「寄り添う」というキャッチコピーは、誰かを傷つけるような間違いも込みで肯定してしまいそうな気がする。だから、こういう言葉を使うことにはかなり慎重になった。ここまで悲観的に考える必要は無いかもしれないけれど、少なくとも寄り添えているかどうかは、こっちが決めることじゃない。「大衆に届くことのない」という言葉への感情はこれに近い。

あと「何に対しても中立的」ってのも無理があるよ、と思った。


ーー書き疲れてきた。真面目な文章が続くと大変でしょう。適宜お茶でも飲んでくださいね。


🍵


同級生のみんなが書いたコレをまとめた冊子が家にあって、今でもたまに読む。文章は真面目だけど、みんなかなり好き勝手をかましていて面白い。そして、あの人こんなことに興味があったんだ、と今更びっくりする。何も知らなかった人が多すぎた。自分がどれだけ他人に興味を向けずに生きてきたのかが分かって、反省した。卒業前に勇気を出して話しておけばよかったなと思う。



あと、

「この人の文章、読んだことないな」という人の文章って、いいなと思った。

よく知らない同級生の文章。それだけでもう、読むのが楽しい。

この人、こういう書き方をするんだ。こんなこと思ってたんだ。無口な人だけど、文章じゃこんなに喋るんだね。

むしろ思われる側だったかもしれないけれど、いろんな人の書いた文章を読みながら、心からそう思った。

このnoteは中高の友達には誰にも見せていないけれど、もし読んでもらったら、自分に対するイメージは変わったりするんだろうか。絵ばっかり書いていて無口だったので、自分へのイメージは空白か、話しかけにくいとか、そんな人がほとんどだったんじゃないかと思う。

ーー何を考えているか分からない。

ーー無表情。

ーー時々突飛なことをするけれど、タイミングが謎。

ーー何も考えてなさそう。

ーー目立ちたいのか目立ちたくないのか分からん。


言われたことのある言葉一覧。大体当たってるから、そこまで表裏は無いんだと思う。私は見たまんまだよ。

「あなたってよく分からない」と言われてしまうのが寂しくて、どうしてなのか中学生くらいからずっと考えていた。
最近ふと、これってもしかすると「言葉」を見せたことが無いからかもしれない、と思った。絵をそこそこ見てもらってきたつもりだったから「自己表現なら十分した」と思っていたけれど、そういえば、文章って全然書いたことが無かった。

誰に対しても、こんなにたくさん文章を見せたことは無い。文章を書くのが好きと気づくのに20年もかかったから、高校生のうちに公開できた一番長い文章は、多分この「普通」の課題だ。思いつきでnoteを始めて、やっと気が付いたこと。文章を書くのは楽しい。

文章は絵と違って、良くも悪くも込めたい思いがハッキリして見えるから、文章を見せたら「分からない」は幾分か改善できるかもしれない。同時にイメージが悪くなる可能性もあるけど。

絵は不確かで曖昧だから、相手の想像力が豊かであればあるほど、良いように解釈してくれる……みたいな面が、あるような気がする。特に自分が好きな、ただただ描き込みまくった意味ありげに見える絵なんかだと、尚更。自分を分かってほしいと思いながら、そういう曖昧な媒体で隠そうとしていたのは自分の方なんじゃないか?最近そう思うようになった。

はっきりとした言葉で伝えること。それは怖い気もするけれど、色んな人から自分の文章を読んでもらうことに、今少し興味がある。


ーーこんな文章書くんだ。無言だからって、何も考えてないわけじゃなかったんだ。

人の文章を読んでそう思った、と書いた。

同じく口数が少なめなのに、そんな当たり前のことがどうして分からなかったんだろうと思う。この人無口だけど、親しい人には物凄く喋るんだよねって、そんなの、誰だってそうじゃないか。何も考えてない人なんていないんだから。

実際に口を開いて話す言葉が少なくても、心の中では常に考えて何か喋っている。

物静かな人の心は、大体うるさい。


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