ロメ
日常
昨日から、夜の風だけ金木犀の香り。
※一部、映画『君たちはどう生きるか』の内容に触れています。 映画『君たちはどう生きるか』を観た。一人ではなく、二人で観た。映画館ではなく、音響の整った個室スペースを使ってDVDで観た。幼少期から聴覚過敏があり、映画館の大きな音に耐えられない私を、一緒に観た人が気遣ってくれたのだ。ありがたい、ありがたい。 鑑賞会が終わった後の夕方、一緒に観た人と二人でふらふらと街中を散歩した。でもすぐに、元々苦手だったその街の煩さに全く耐えられなくなってしまった。2時間ずっと個室に座って見
『帰宅』 薄暗い青の中に、昼下がりの薄明りが少しだけ差し込んだ水色が広がっている。自宅アパートの一室の扉を開けると、部屋の奥からどっと海水が押し寄せた。 海草やプランクトンの混じったそれを、僕は全身に浴びる。勢いは暫くやまない。ごうごうと音をたてながら、潮の香りを漂わせながら、いつまでも部屋からあふれ出て僕の身体を濡らしていった。やがて水の勢いが弱まると、前に進めるようになった。ひたひたと、海水を滴らせながら、玄関にあがる。そして吸い寄せられるように水浸しの部屋へと入ってい
大学卒業前最後の通学、いつもの電車に乗った。相変わらず滅茶苦茶に混んでいた。 満員電車に限らず人混みが得意ではないけれど、得意な人なんていないと思っているけれど、人混みにいるときに一つだけ好きなことがある。それは、色んな人の顔を見られることだ。 デパートのセールス、都心の駅、初詣。混雑の中にいると必然的に多くの人と押し押され合うことになり、そんな視界の悪い中で見えるものは沢山の「人の顔」だ。ぎゅうぎゅうの中で周りを見渡すと、世界には本当に色んな顔の人がいることが分かる。そ
寄り道をすると雨が降る。特に何の比喩でもない。曇りの日の「降るかも」という日に寄り道をすると決まって雨が降る。「この空模様なら降らない」と思って安心して、文房具屋さんとかに入って、特に何も買わずに出てくると雨が降る。降っている。そのまんま帰っていれば雨に降られることなんてなかったのに、寄り道をして帰宅時間がずれて、そのせいで雨粒に濡れる。 帰宅といえば、この間、遠くの場所からの帰り、空いている電車に乗った。空いてる電車に乗ったのは久しぶりで、とても良い時間だった。空気も揺れ
暇なのがそんなに嫌か。
ジェンダーを専門的に学んだことは無くても、中学生の頃に自分の性別が分からなくなって(というか生物学上の自分の性別がどうしても受け入れられなくて)そこで抱いた感情が特に上の年代の人からあまりにも理解されないことを最悪とは思っていたから、何とかなってくれ世界と願う気持ちは山ほどある。
「毒親」という言葉がある。 「言葉や態度で子供を傷つけたり、支配した気になったりする親のこと」が、今世間で使われている大意らしい。使われるのには様々な背景があるだろうが、私は今後何があっても自分の親を形容するのにこの言葉を使いたくない。これからそういう話をするが、この下に書くことは全部自分の家に対して自分が思う話で、「毒親」という言葉を使う人や、その背景にある考え方を批判する意図はない。 タイトルの時点で察されているかもしれないが、私は自分の親に対して色々思うところがある
シーラカンスが好きだ。 大昔からこの世界を泳ぐ魚。生きた化石。ずっと昔にはもっとたくさんの種類が生息していたが、ラティメリアと呼ばれるもの以外は絶滅した。どこかでひっそりと生きているのかもしれないけれど、今のところ私たち人間には見つかっていない。そんな魚、シーラカンスが大好きだ。 なぜ好きになったのかというと、小さい頃から「シーラカンス」という言葉と、その姿に触れる機会が多かったからだ。 福島県に「アクアマリンふくしま」という水族館がある。祖父母の家に行くたびに訪れてい
4歳の頃、病気で入院していた母が退院し、一年ぶりに一緒に暮らせることになった。再会の日、私は泣きながら「どうして嬉しいのに涙が出るんだろう」と言ったらしい。聞いた時はなんて出来た話だと思ったけれど、それでも確かに、人が嬉しくて涙を流す理由はずっと分からなかった。それから10年以上が経ち、米津玄師さんの音楽「アイネクライネ」を聴く中で、「奇跡であふれて足りないや」という歌詞に出会った。以来、小さな4歳児もそうでない大人も、目の前の出来事があまりに大きいと、自分が足りなくなって泣
スマホやパソコンで「今日」と打つと、予測変換の中に「20〇〇年〇月〇日」とその日の日付が出てくる。便利だと思ってよく使ってる機能なのだけど、それに慣れすぎた結果、先日とうとう大学の講義で配られた紙のリアクションペーパーの日付欄にまで「今日」と書いてしまった。デジタル社会の犬め。 ーー 秋学期が終わった。 正確にはまだあと一つ最終レポートが残っているのだけど、多分それは何とかなるので、終わったということにする。レポートを書く気が起きずぼーっとしてしまうので、せめて文章を書
僕の罪の背後にはたくさんの花が咲いていた。
去年の夏頃、丸一日りんごと向き合ってみたことがあった。 買ってきたりんご達を目の前に、触ったり切ったり並べたり、スケッチしたりしていたのだ。「りんごっていいな」と思った。よく見ていると、色も形も思ってたのと違う。りんごに限らず何でもそうなんだろうなと思う。その辺にある森羅万象の中で「よく見たことのあるもの」って実は物凄く少ないんじゃないだろうか。 描いたもの、よければご覧ください。 久しぶりにクレパスを使った。信じられないくらい楽しかった。色の混ざった部分が綺麗。りんご
「教科書」の話。 学校で使われる教科用図書、通称「教科書」。欧米におけるこれは、日本と違ってレンタルが主流だそうだ。つまり書き込みが出来ない。自分の後も色んな人が使うものだから、汚してはいけないのだという。重要単語にマーカーを引くとか歴史上の人物にヒゲを書くとかはしちゃいけないのだ。私はこれを、大学の授業で習うまで知らなかった。 それで何が言いたいかというと、「教科書への落書き」というものが、実は日本独自のあるあるだったと気づいたのだ。「先生の話が退屈だと、教科書に落書き
朝。 電車から見える 街の色が とても綺麗だ。 まだ眠い頭の中で、どうあがいても一限に間に合っていない電車の中で、考える。 色んなことを考える。 時々ぼーっとする。それも、気づいたらやめていて、また色んなことを考えている。気が付いたら考えて、気が付いたらぼーっとして、また考えて、ぼーっとして、その繰り返し。 そんな風に頭を回す人たちを沢山乗せながら、 電車って走っているんだろうなと思う。 隣に立っている人は、 今何を考えてるんだろう。 つり革一つはさんで隣