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ファミリーヒストリー




四十年思いつづけし夫の遺品遺稿の整理しばらく始めぬ


この短歌は、祖母が遺したものです。祖母は、年老いてから「アララギ」に入会しました。写真は、祖母の歌集です。



祖父は、まだ若い時に戦争で亡くなりました。祖母はその後の一生で、他の誰とも再婚することなく、祖父だけを愛し続けました。

ずっと亡くなるまで、祖父が側にいたんだろうなと思います。

父が祖母のお腹にいた時に、祖父は戦死したので、父は祖父(父親)に会ったことがないのです。「女なら要、男なら浩と名付けてほしい」と祖父が遺し、父は「浩」になりました。

祖母は、その頃では珍しく、現在で言うところの大学まで出ている人で、京都府立第一高等女学校から、京都府立女子専門学校(現・京都府立大学)に進んでいます。世も世なら、何か活躍の場もあったのかもしれませんが、戦後、末っ子の父を含め、三人の子供を女性一人で育ててゆくのは、大変な事だったと、思います。


祖父の戦死を伝える新聞


戦後の混乱の中で、祖母が始めたのは「貸本屋」。

フランス語が堪能だった祖父は、戦時中フランス軍との交流もあったそうで、フランス語の原書(フランス語で書かれた翻訳されていない本)をたくさん持っていたそうです。

日本にはまだ、フランス語の原書などなかった時代、祖父の遺品を貸し出すことで、祖母は、親子四人(祖母と子供三人)の生活の糧にしていました。

最愛の人である祖父が遺した遺品の本は、時には破れてボロボロになって、そして戻ってこない事もあり、祖母は大変心を痛めたそうです。

貸本から始めて、広島県福山市の福山駅から少し南へ行った商店街の中で「古川書店」という小さな本屋を始めました。

叔父は、中学、高校と部活もせず、学校から一目散に帰って古川書店を手伝ったそうです。

「女手一つで頑張る母の負担を少しでも減らすことが、私に出来る唯一の親孝行だった」と、叔父は手記に残しています。

そして、その二年後に、婦人公論社未亡人の手記に応募して、祖母の書いた「古本屋の手帳」が特選に選ばれたそうです。
叔父の回想によると、その賞金が六千円だったそうで、そのお金で神戸に連れて行ってもらい、(東京大学を目指していたが)神戸大学に進学することをその時に決めたのだそうで「人の運命は分からないものだ」と書いてありました。


(婦人公論の手記は残っておらず、読むことが出来ませんが、婦人公論さんに残っていたら読んでみたいな)


誰かのせいで出来ないと、そんな事を言う奴が嫌い!


私に叱って何かを教える時、父はよくそう言いました。
続きはこうです
「誰かのせいではない!自分の努力が足りないのを他人のせいにする奴はけしからん!」

父は祖母から言われたそうです。
「勉強がしたいなら、公立の学校に奨学金(返済不要の)をもらって行きなさい。そうでないのなら、本屋を継ぎなさい」と。

祖母が営む小さい本屋の稼ぎで、父と叔父の兄弟を、私立の高校、私立の大学に入れるのは難しかったのだと父から聞きました。

(もちろん、現代もそうです!女手一つで、二人の息子を私立大学に通わせるのは、困難な事です!)

父も叔父同様、しっかりと頑張って、広島教育大学付属高校から、京都大学へ進み、めでたく勉強を続ける道を進みました!!

とは言え、人一人生活するにはお金が掛かります、衣食住ありますし、祖母はすごいと思います。

そう、何事も他者のせいではないってこと!どんな状況でも。

そして、何不自由なく、のほほんとしている私には「それだけ幸せに生きているのに、自分の足りない努力を人のせいにするとは何事ぞ!」と、言いたかったのだと思います。


明け方の夢に 軍装の夫を見ぬ 病む我哀れみ迎えに来しか


祖母は、晩年、喘息でとても苦しそうでした。

祖母が亡くなったのは、私が20代の頃で、祖母の生きた人生の大変さなど分からないような年齢でした。

世間で言う「優秀な息子さん」である叔父と父を育て上げた祖母からすると、色々な事に興味があり、空想と夢が入り混じった孫の私は、とても難しい理解しにくい存在だったと思うのですが、孫の中で、一番小さな(一番最後に生まれた)私に、祖母はいつも優しかったです。

私が送った手紙は、壁いっぱいに貼ってありました。
分からないことがあると
「mumuちゃん、これは一体どういう意味なんかねぇ?おばあちゃん分からんのんよ」と、聞いてくれました。

夏は、祖母の家の窓から、大きな花火が見えたので、浴衣に着替えさせてもらって、窓から「ドーン」「ドーン」と大きな花火を見るのが楽しみでした。もちろん、スイカをかじりながら。

(子供のころからの私はコチラの記事で↓↓)

祖母からは、笑われたり腐したりされた事は一度もなかったです。今思い出すと、涙が止まらないほど「愛」を受けていたんですよね。


祖父の眼鏡


中学生の頃、叔母(父の姉)と一緒に、祖母宅の納戸(納戸というより、思い出の品置き場のような)を見ていました。

多分叔母が
「mumuちゃん、おばあさんの色々な物があるけぇ一緒にみよう」と、誘ってくれたと思います。

アルバムや、手紙や、色々な物が出てきました。その時、木の箱を見つけました

「おばちゃん、これ何やろうか?」

「なんじゃろうね?」

「開けていい?」

「ほうよね、開けてみんさい」

蓋を開けると出てきたのは、土がいっぱいついた泥だらけの眼鏡でした。

「mumuちゃん、それは触っちゃいけんよ。おじいさんの形見よ、おじいさんが亡くなった時に掛けようちゃった眼鏡よ」

「おばちゃん、でも、こんな泥だらけ、綺麗にする?」

「mumuちゃん、それを綺麗にしたら、おばあさんが悲しむけぇ、汚れたまんま蓋しておきましょう」

この時、祖母がどのくらい祖父を愛していたのか、子供ながらに胸が詰まる思いだった事、今でも覚えています。


血糊つきし 眼鏡を遺品と送りきぬ 頭部貫通銃創なりしと

祖母の詠んだ歌です。





祖父母や親は、多くを語らないもの。

大切な人がこの世からいなくなって、子や孫は、自分への大きくて純粋な愛を知ることが多いです。多くの苦労を背負って誰しも生きています。
辛い事も乗り越えて、そうやってあなたに命は繋がれました。

だから、あなたは、毎日を大切に生きて下さいね。

あなたがしあわせでありますように。

あなたの気持ちが辛い時には、akaiito RÉGAL CHEESE CAKEがそっと寄り添えるように、心を込めてお焼きしています。
そう、真っすぐな手作りで。

今、日本は「幸せいっぱい」という状況ではないけれど、あなたには愛がいっぱい詰まっています。ギュッと詰まっています。

もし、寂しい時があったなら、akaiito RÉGAL CHEESE CAKEを、食べながら気持ちを心ゆくまで、吐き出して、元気になっていただけたら嬉しいです。
わたしは、いつもあなたを応援しています。


店主 mumu


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