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日記の賞味期限あるいは適時性のこと

2024/10/08、火曜日、7:06。朝、田舎の駅の待ち合いスペース。電車の本数が多くない。選択肢が少ない。これも「田舎では選択肢が少ない」という言説の、一つの例になる。

今日の日記は、今日だけの分ではない。一際まとまりに欠けているし、変なところでto be continued になるのでご容赦いただきたい。私はかえすがえすも適当な部分がある人間だなと思う。

さて、日記にはタイミングっちゅうものがあるように思う。書くのにいいタイミング。書きやすいタイミング。たとえば書きかけの、「ある日の日記」を引っ張り出してきて仕上げるのは、泥濘みの足取りのように重い。新鮮さを失った書きかけの日記など、後から完成させる気にはならないことが多い。意味がないような気もする。

今日この日記を書き足す気になったのは、このことを少し書こうと思ったからだ。

結論めいたことを言うならば、日記には意味が付与できるし、意味がなくてもいい、という言い方もできる。後で見直さないなら書く意味がないだろうという「成功者」もいる。私はそれを聞くと脳で納得するし、肚のうちではもやもやする。恐らく虫でも棲み着いているんだろう。

一週間前の書きかけの日記は、自分にとって魅力が薄い。内容が薄いならなおのことだ。それは今の自分にとって、「タイミングがずれた文章」と「評価」しているのだろう。「評価」しなければ、いいも悪いもなくただの文章だし、もっと言えば文字の連なりだ。「タイミングがずれた文章」は、「評価」の時点で意味を見いだしにくいだけとも言える。

私は今日、書きかけの日記を見てうんざりしながら、新鮮さを失ってもはや食べることのできない食品を冷蔵庫の中で見つけたような気持ちになっていた。「だめにしてしまった」「腐らせてしまった」という落胆。

しかし、そこでふと「日記の適時性」という考えが浮かんだのだ。これならば「(楽しく)書ける」という感覚を得た。そして、いま書いている。「日記の適時性」とはまさに、ここまで書いていた「日記におけるタイミング」のことであり、そこにはタイミングよく見えるものもあれば、そうでないものもある。これはすでに書いた通り、「評価」「評価基準」次第だと考える。

そもそも、ただの文字の連なりだとも言えるし、意味はおのがじし勝手に持たせるものだ。

「適時性のある文章」というのは、文字面としては日本企業の「適時開示」みたいだ。タイムリーに、そのときに出す情報、出すことが求められる情報。それは企業メッセージだけではもちろんない。「その時の文字」

「その時の文字」には意味もあったりする。恋人がくれた紙切れの文字。寄せ書きのメッセージ。打ち合わせで決まった内容、勅撰和歌集に並ぶ文字のつながり。ミステリー作品につきものの、「ダイイングメッセージ」(※文字の場合)など。

たとえきれいにまとまっていなくても、誰に褒められるわけでなくても、個人的にそれらは、残しておけばいいなと思える。昔の人の日記は、それが恣意的でもナチュラルでも、有名人によるものでも名もなき先祖のものでも、それぞれに面白みがある。このように思うのは、きっと自分の性分でもあり、何らかの教育や洗脳の賜物でもあるだろう。やや安直な繋がりを求めるならば、私が文化人類学の徒であったことについて、この考えを元から持っている部分もあったし、学問によって強化された部分もあると見ている。他人からすれば、通常は本当にどうでもいいことだけれど。

綺麗にまとまったとは評価できないが、下記のような日記のかけらに、多少それらしき居場所を作れたような気はしている。ここから下は、メモとして残しておきたい。

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2024/09/27、金曜日、6:54。朝、部屋。平日仕事なので、週の最終日のスタート。

時間は飛んで、

2024/09/27、金曜日、23:20。夜、リビングの椅子。仕事終えて、食事も終えて久しく、シャワーにも入った。

時間は飛んだ。仕事にも集中できたし、没入感もある一日だった。決めたことをやり終えることができた。それは、よかったことだ。

今の過ごし方は、比較的まじめだ。まじめに働いて、まじめに仕事を終える。けっこうなことだ。

まじめに仕事をやるのは美しいあり方だと思うし、楽しく仕事をできるなら本人にとってもまわりの人々にとっても幸せだと思う。

一方、真面目に働いたときに、何かもやもやするダークな「副産物」「老廃物?」が、心や身体に溜まる気がする人はいるだろうか。うまく言語化てきていないが、「仕事頑張ったし自分にご褒美を」「非日常的な見返りを」という気持ちがたとえば週末の休みに強く働くとき、「副産物」「老廃物?」あるいは「疲労物質!?」の「解消」が無意識的に意図されていないだろうか。※無意識的に意図とは妙だが

この「解消」について、ある有名な説明モデルでは、労働者が再度生産活動に当たれるよう与えられる、最低限の(?)生活と休息のことを指しているようにも感じる。

もし働く人の心のうちに、「労働者として搾取されてなるものか」という気持ちが働くならば、「真面目に働く」こととは相容れない部分があるだろう。

自分の中に、階級闘争のごとき小さな争いの構造があったのではないかとふと思った。

ここからは、気が向いたらまた書こうと思う。

(つづく)

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今回はおしまい

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