偉大な文学はどのように生まれるのか
僕はこれまで、マルセル・プルースト、ヴァージニア・ウルフ、辻邦生、福永武彦などの作家たちを愛読してきた。
僕が彼らの作品を読む度に痛感するのは、このような偉大な文学が今の時代に生まれてくることの不可能性についてである。彼らの言葉は高い密度で満たされており、その密度の濃さを可能にしている時代的な条件がある。僕が彼らの作品を読むとき、僕たちの世界からその条件がすっかり失われてしまったという思いに囚われるのである。僕たちはもう彼らのように語り、書くことができなくなってしまったのではなないか。
僕がこのことを考える際につねに念頭においているのは水村美苗の『日本語が亡びるとき』である。この本のなかで水村は偉大な文学が生まれるための集合的な条件について考察したが、日本文学の未来については特に悲観的な予測を立てている。その予測は、日本語の言語空間が日々衰退している事実を冷厳に直視する水村の姿勢に基づいている(このことは、水村が現役の作家であるという事実によってさらに重い意味を持つ)。
そう、ここで重要なのは、天才はひとりでに生まれるのではなく、文化的な条件に支えられて生み出されるものであるということである。そうであれば、我々はその条件とは何かと問うことから始める必要がある。ではその条件とは何か?
時代的な条件
たとえばヤスパースが「枢軸時代」と呼ぶ時代がある。この時代には、釈迦、孔子、ソクラテスなど、それまでの歴史を一変させた偉大な思想家が次々に登場している。
この世界のなかに新しい人間が生まれてきて、世界に何かしら価値あるものを遺して去っていく。アーレントはここに人間の根本的な条件を見い出していたが、そのためには偉大な行為が他者によって見られ、記録される公的な空間が必要とされる。この空間のないところでは時間は継続性を持たない。自然は巡るのみであり、歴史を生むことは決してないからである。だから人は自然に重ね合わせて神社を建てるのであり、その周囲に様々な人間の営みを組織化させる。こうして時の試練を乗り越えるだけの耐久性を獲得した文化が形成される。このように人間の営為によってつくられた空間のなかでのみ、真に人間的な生き方が可能になる。
ここで言う人間的な生とは、世界の維持・発展に唯一無二の仕方で貢献することである。枢軸時代の思想家たちは自らの手でこの「人間の空間」を切り開いたがゆえに偉大であり得たのであり、僕が尊敬する作家たちも、書くことによってそうした生き方を目指していたのだと僕は理解している。
しかし、僕たちの時代において、そうした空間を維持していこうとする社会的な意欲は著しく減退している。アーレントはすでに彼女が生きた時代においてこのことを嘆いているが、彼女の時代にはまだそれを嘆くだけの能力があった。それが失われつつあることを嘆くことはできるのは、まだそれが少なからず存在しているためである。一方、我々は、それがとっくの昔に失われてしまった世界に生きている。したがって、それが実際にどのような価値を持つものであったのかということについては、過去の先人たちの言葉から推し量るしかない。しかし、我々の社会は、読書人口の低さもあいまって、そうした偉大さがかつて存在していたことすら認知されなくなっているという絶望的な状況にある。その結果我々は、自らは何も生み出さず、先人の遺産を食い潰すだけの存在になり果てているのである。
言葉の創造的な側面
この状況から脱却するためには、自らが用いている言葉そのものと向き合い、言葉との関係性を変化させることが求められる。
僕たちは通常、言葉は現実を反映するものだと考えている。しかし、むしろ反対に、言葉が現実をつくっているという側面もある。
そのことが忘れられると、言葉にされたものが所与の現実であるかのように考えられてしまうが、そうなると現実は、静止し、動かしようのないものとして我々の前に立ちはだかることになる。そのような現実を前にして、我々は決して現実を変革する力を持ち得ないだろう。
辻邦生が自身の創作活動を通して見ていたものは、この動かしがたい現実が持つ「黒く重い力」だった。彼の主戦場は、この黒く重い現実の前に虚無化されようとしている人間の空間をいかにして再び立て直すかということにあった。言葉が現実を意味づける作用を失い、所与の現実を追認しそれに適応することを求められる際には、人間は自らの生を支える根拠を持ち得ないということに辻は気づいていたのだった。
言葉による現実の創造行為を多くの人が断念し、所与の現実を受け入れることは、ただ習慣に身を委ねて生きていくことを意味する。習慣化された行動、感情、思考のあり方はある種の快適さをもたらしはするが「それを真に生きている状態と呼ぶことは出来ない」(福永武彦)。
とりわけ、僕たちが現在経験している言葉は、為政者に都合よく仕立て上げられた「道徳」の匂いが強く漂っている(「無駄を削れ」「痛みを分かち合え」「将来世代の幸せのために」等々)。こうした言葉は我々の日常のあり方を強く規定し、生き方を方向付けるが、誰もその言葉に責任を持っていないがゆえに一切の現実を反映していない。丸山圭三郎が指摘したように、我々はまず身体によってこの世界を分節化し、身体化された現実をさらに言葉によって分節化する。したがって、あらゆる言葉はそれを発する主体の身体と響き合ってはじめてリアルなものになる。しかるに私たちは、自分の身体から「声」を発することを完全に忘れてしまっている。ルドルフ・シュタイナーやケン・ウィルバーがよく言っているように、僕たちは首から上だけで生きているようなものであり、自分の眼で世界を直接観ようとすることを拒絶しているのである。
人間の条件が否定されたこのような状況を乗り越えるためには、思考が発動される前のところで、自らの感覚に立ち戻りその思考を注意深く検討することのできる能力が必要とされる。
身体から感覚が立ち上がり、言語化される前の言葉をつかむこと。
たとえばヴァージニア・ウルフがしていることは、そのような言語的行為ではなかっただろうか。彼女は言葉になる前の言葉を書くことができる稀有な人だった。それゆえ、彼女の言葉は最後まで老いることなく若さを保ち続けた。書くことによって彼女は都度新しく生まれ直していたからである。
そのようにして表現された「声」が「人間の空間」のなかで光を当てられ、公的な記録の対象となるとき、この世界は豊かなものになり、人間は真の意味で自由を獲得するだろう。そして、僕がこれまで読んできた作家たちが目指していたのは、まさにそのようなことであったのではないかと思うのである。習慣化している生のありようを突き崩し、再びこの人生に新鮮な風を送り込むこと。そのようにして自分自身のビジョンを確立すること。それは世界が新しい眼で自分自身を眺め、驚くということでもある。
こうしてはじめて、人間がこの世界に生まれてくることの確かな根拠を僕たちは見出すのである。