【H】最近の「円安」から振り返る日本経済の30年(2) ケインズ経済学と新自由主義的な経済学—妻に伝えたい「経済」の話②
これは前回の記事の続きです。
4、バブル崩壊・小泉構造改革・アベノミクス
先の記事で確認したように、民主党への政権交代の時代、リーマン・ショック、欧州債務危機、東日本大震災などのさまざまな事象が重なり、円は1ドル75円という史上最高値をつけた。日本国内は、輸出不振、産業空洞化、輸入物価下落によるデフレ圧力のなかで「円高不況」に陥っていた。
この状況を打開するべく登場したのが「アベノミクス」だった。アベノミクスの三本の矢は「大胆な金融政策」「機動的な財政出動」「民間投資を喚起する成長戦略」である。アベノミクスの画期性は、日本に「標準的なマクロ経済政策」を復活させたことである。
「標準」を復活させただけなんて、そんなものは画期的でもなんでもないと言われそうだ、確かにそうなのだが、それが事実なのである。このような「復活」の背景には、その前に一度それが死んでいたということがある。まずは、そのことを見ていこう。
4-1、ケインズ経済学と新自由主義の経済学
世界的に1970年ごろから「不景気なら政府が財政出動をして需要を作り出すべき」、つまり、「政府が自らの財政支出をコントロールすることを通じて、総「需要」管理を行うべき」だとする、標準的なマクロ経済政策を主張するケインズ経済学が退潮していた。その代わりに「供給」面に焦点を当て、規制緩和などの構造改革によって競争を促進して経済の供給能力を高めるべきだとする、いわゆる「新自由主義」的な経済学が台頭してきた
この新自由主義的な経済学は、その実、経済学の一番古い伝統に忠実な「正統」である(だから「正しい」というわけではない)。経済学のもっとも古い教義は「神の見えざる手」であり、これは経済学の伝統の中で、均衡を生み出す市場の力を指すものとして解釈されてきた。
均衡とは、需要と供給の一致である。市場では、価格が動くことで、この均衡が生み出される。需要が供給より大きければ、価格が上昇する。逆であれば、価格が下落する。その価格の動きは、需要と供給が一致する価格に到達するまで続く。その価格で需要と供給の一致としての均衡が実現する。
このような「神の手」の動きを前提とすれば、需要不足としての不景気や失業など本来は存在しない。需要が供給に対して不足するのは、ただ価格が高止まりしているからなのだ。だから、不景気や失業があるとすれば、それは価格を下げることを不可能にする最低賃金などの規制が原因であるということになる。
標準的なマクロ経済政策を擁護する私のような立場からすれば、何らかの事情で需要が減った結果、価格が下がる形で需給が一致(=均衡)したとして、そこでの取引の価格、すなわち、(物であれば)売上が、(労働力であれば)賃金が、次の需要を形作るのだから、このことは需要減少(→売上減少)→賃金減少→需要減少→…という縮小的な均衡の連鎖を生み出すことは明らかであるように見える。ただ、経済学の正統はそうは考えないようである。
こういうわけなので、この新自由主義的な経済学では、需要面で心配がないので、残る問題は供給面であり、供給面の成長を妨げる非効率を生み出す、大きな政府や産業規制こそが問題だということになる。導き出される結論は、民営化や規制緩和であり、構造改革なのだ。
小泉構造改革とは、この新自由主義的な経済学をバブル崩壊以降の日本の状況に誤って適用したものである。そのことを見るため、バブル崩壊後の日本の状況を振り返っておこう。
次回は、4-2、バブルとその崩壊―バランスシート不況へ、からスタートします。以下のリンクです。