【W】対人三原則「媚びない」「群れない」「無理しない」
最近の推しがフェデリコ二世(神聖ローマ皇帝フリードリッヒ二世)であるという話は、以下の記事にそこそこ熱く書いた。
その評伝をいろいろと読む中で、かの著名な19世紀の思想家フリードリッヒ・ニーチェがフェデリコのことを「わたしのもっとも近しい血縁者の一人」としてシンパシーを感じていたと知り、ニーチェにも関心を持つようになった。
わたしはどちらかといえば知性より感性が優るタイプで、しかも認知特性的に、文字の羅列をそのまま言語情報として処理するのは得意ではない。(どちらかといえば視覚優位であり、文章は頭の中で映像化して飲み込んでいくタイプ。)
ゆえに、抽象的な議論がひたすら文字に起こされている哲学という学問は、はっきり言って苦手である。(理解できればとても面白いのだが、自力で解釈できた試しがない。)
自分の興味ど真ん中である13世紀あたりの西方教会圏のことを深く知るため、トマス・アクィナスをはじめとする中世哲学の領域に足を踏み入れてみたことはある。諸入門書を読むだけでなく、東大の山本芳久先生が一般向けに行っている文化センターの講座を半年ばかり受講してみたのだが、向いていないことを一瞬で悟り足早に退散した。
また、主人が元々大学では哲学徒だったため、家にはかつて近代哲学の書物が床が抜けそうなほどたくさんあった。試しに手にとって最初の数行を読むことは幾度かあったものの、全く頭に入ってこず、面白みも感じずで、哲学には馴染めそうにないと感じていた。(ちなみに大量の書物は引っ越しの際に大方処分したため、今はほとんど手元にない。)
しかし、ついこのあいだ思いがけずフェデリコを介してニーチェに出会い、一体どんな人物なのだろうと興味が湧いた。ひとまずとっつきやすそうな自伝『この人を見よ』を手に取る。そして現在、見事にはまっている。
ニーチェは読みやすい。アフォリズムという形式を採っていて、一文一文が短く簡潔にまとまっている。(一文が長ったらしく、内容も複雑で、「これについてこられない知的レベルの奴に用はない」と言わんばかりに書かれた論文によって構成されるアカデミズムを毛嫌いしてか。)文字情報の処理に時間のかかるわたしのようなタイプには有り難い。しかも内容もたまらなくいい。共感と憧れが溢れて痺れ切っている。若干厨二病感は漂うが、構わない。こんなにかっこいい人がいたなんて!
というわけでこの頃は、家ではフェデリコ二世、外出先ではニーチェを読むという生活を送っている。
さて、そんなニーチェについて語るには未だ知識が十分でないので、アフォリズムに関連して、日々いろんな出来事に直面する中でわたしが大事にしている短い言葉たちを何回かに分けて紹介してみようと思う。
題して「寄り添ってくれる言葉たち」シリーズ第一回。
「媚びない」「群れない」「無理しない」
これは、個人的に掲げている対人三原則である。
近頃「HSP」についての話題は下火になりつつある気がするが、自分もこれに当てはまる特徴を有している。感覚が鋭敏な分、多くの人は気に留めないような些細なことを無駄にキャッチして、不快感を覚えたり神経を尖らせたり。持って生まれた特性が生きづらさを生んでいる。さらにわたしの場合は自意識過剰であるがゆえ、外からキャッチした情報の発生要因を自身に結びつけてしまう。(自責思考というらしい。)生きづらさに拍車がかかる。
特に対人コミュニケーションは過量の情報処理に追われ辛い。
話す内容、自分に対して行われる振る舞い以外に、相手のふとした視線移動、間合いの取り方、体臭の変化に至るまで、当人が無意識に発している微細な情報にも意識が向く。それに加え、相手と自分を取り巻く外部環境(第三者の気配、視線、声、音、匂い等)にもいちいち思考が妨げられる。そして、キャッチした情報がネガティブなものだと、反射的に自分が原因だと考えてしまう。
そんな難儀な性格であるがゆえ、一歩外に出れば出会う人全てを敵認定してしまう。あらゆる他人の言動を、自分への攻撃だと捉えてしまう。
だからといって、喧嘩がしたい訳ではないのだ。むしろ平和に穏やかに過ごしたい。だが、その方向に身を委ねると、自然と他者の意向に沿い続けることになってしまう。ちょっとした所作や何気ない発言から相手の意図を汲んで自分の言動を取捨選択したり、公の場では周囲の迷惑にならないよう神経が過敏になって度の超えた配慮をしたり、自らの意思をよそに所属組織の都合のいいように立ち振る舞ったり。
意志が強いタイプでなければ、それはそれで社会的にはいいのかもしれない。優しい人、親切な人、気が利く人、仕事であれば優秀と評価されることもあるだろう。しかしわたしはとびっきり我が強いのだ。相手が求めるものを手にとるように察することができる(ような気がする)のに、自分の方向性と違うことは極力したくない。だからといって自分の意向を優先させ過ぎると、相手を裏切っているような、傷つけているような気持ちになり、居た堪れなくなる。
どんな状況下でも自分らしく振る舞える、主人のような鈍感・マイペースさんに心底憧れるわたしは、自分の意志を貫くために「媚びない」をマイルールとして掲げることにした。自己中心的な行動を是とする意図はない。ただわたしのようなタイプは、そう自分に言い聞かせていないと、罪悪感を避けるために気づくと相手の意のまま行動してしまう。相手に嫌われるより、自分のことを嫌いになりたくない。「媚びないぞ」と思っておくくらいがちょうどいいのだ。
それ以外の二つも同じ趣旨に則ったもの。
「群れない」については、そもそも集団の中にいなければ、他者の意図を汲んで自分の意に沿わない方向に進んでしまう事態は発生しないことから、可能な限り自由でいようという考えで設けたもの。
三つ目は「無理しない」。「媚びない」「群れない」と思っていたとて、職場ではもちろんのこと、家族付き合い、近所付き合い等、人間関係にはどうしたって自由でいられない場面がある。状況によっては媚びるような振る舞いをしなければならないときも、自分の意見を封じて群れておく方が得策ということも往々にしてある。そんな場合でも過度に周囲に合わせて自分のことを疎かにしないよう、「無理しない」を意識する。35歳のこの年齢まで、これが全くできていなかった。自分には限界があり、対人関係に限らずあらゆる物事には余裕をもてる範囲で臨むことが重要だと、年を重ねて体感した。社会一般にSDGsの考えが浸透して久しいが、自分個人においても、持続可能な社会活動のため特に対人関係においては「無理しない」ことを心がけている。
次回に続く。