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火を見る

五山送り火。

京都の夏の風物詩である。お盆に帰ってきたご先祖様の霊を見送るための火だとされているらしい。

だが、そんな由来の話は正直なところ二の次なのである。大学進学を機に京都に越してきた身としては、送り火はありったけの京都感を味わうための一大イベントという認識にすぎないのだ。
凡庸な大学生とはそういうミーハー心を主成分にしている生物なのである。


目の前を華奢な黒髪女性が彼氏とおぼしき男性に手を引かれ通りすぎていった。

大学の付属農場前道路である。15分程前まではほとんど人がいなかった道路には、20時に近づくにつれどこからともなく人々がやってきた。学生グループや家族連れ、でかいカメラを抱えた青年など様々な人間がいた。
20時、大文字山に一斉に橙の灯りがついたとき、人々は揃って嘆声をあげた。

彼氏(仮)に手を引かれながらその黒髪女性は心なしか恥ずかしそうな表情であった。大衆の面前にして手を握られていることが何となく照れ臭く感じていたのかもしれない。
対して彼氏(仮)の方は人波をかきわけてずいずいと進んでいく。その堂々たる姿勢と未来を見つめているであろう真っ直ぐな視線に私は惚れ惚れするほかなかった。彼氏なのか、はたまた付き合う前なのか(だとしたら勇気がありすぎる。彼にはありったけの拍手を送りたい)(しかしながら個人的にあれは付き合っていない方がグッと来るシチュエーションだったので自分の中でだけはあのふたりは付き合う直前の一番楽しいところだったのだろうと解釈しておきます)、どちらにせよその一瞬の光景に私は溢れんばかりの青春の煌めきを感じざるをえなかった。

ふたりは送り火よりも光っていた。眩しかった。


横で肩車された幼児は『やま!ひかってゆ!』と叫んでいた。

幼児、お前も充分ひかっているよ。



幸いと言ってよいものか、私は近しい人の死を経験したことがない。

小学2年生の頃、一度だけ遠い親戚の死を目の当たりにしたことがある。生前会ったこともなかったし、私の中では数回話に聞いたことがあるくらいで、ほとんど知らない他人であった。
訃報を聞き家族全員で病院に向かった。『大往生でしたねえ』『最期は眠るように息を引き取りました』などという話をぼんやりと聞き流しながら、私は他人事のように病室の前に立って暇をもて余していた。促され病室に入ると紙のような色をした人肌がそこにあり、その指を看護師である私の母がてきぱきと組ませているところだった。そのとき自分が何を考えていたのかは今でもさっぱり思い出せないが、私はなんだか涙が止まらなくなってそこに立ち尽くしてしまった。
どういう血縁関係かも定かではない知らん兄ちゃんが『ジュースでも買いにいこか』と私を連れ出そうとしてくれたが、私は頑なにそこを動かなかった。その光景を目に焼き付けておきたかったのだろう。
でもあの瞬間の記憶は正直もうほとんどなく、私にとって『死』の概念は今もなお他人事のままなのだ。


送り火を見て誰かに思いを馳せる日が私にも来るのだろうか、などと考えながら、今年も私は呑気に火を見ていた。

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