桐壺登場 その十 光る君の袴着を妄想とともに語る
その十 光る君の袴着を妄想とともに語る
光る君が三歳になる年、袴着の儀が行われることになりました。帝の御子ですから、公事です。当然、一の御子と同じくらいには、と言う女房もおりましたが、私にはどうでもいいことでした。
我が子の袴着です。感無量です。本当に、よくここまで健やかに育ってくれました。これから人となるための初めの一歩、子どもという可能態の時代が幕開けします。あなたの子ども時代が明るく豊かで普通でありますように。お母さんはあなたをお祝いします。
しかし、と申しましょうか、ゆえに、と申しましょうか、光る君の袴着は一の御子にも劣らない盛大な儀式となってしまいました。それというのも帝です。内蔵寮の役人たちに、宜陽殿の納殿の宝物を惜しみなく使わせよ、と言い出したのです。
世間の非難も多くあるのは、とっくに知っていることです。そこへこれですから、さぞかし、と思いきや、光る君があまりにも素晴らしいので誰も妬むことはできない、といった様子で、このような御子もこの世には生まれ出ていらっしゃるものなのですね、とはよく聞かれた言葉でした。
そりゃそうでしょう。この子の可能態には私たちの革命のあれやこれやがまどろんでいるのだから。だからあなたたちはそんな目をしているんでしょ。
そう。目、なんです。公事ですから、それを眺める男たちがいます。帝の後宮に女たちを送り込むような上流貴族たちです。上流にも上と中と下があります。名ばかりの上もあれば、実を持った下もあります。上から滑り落ちた中もあれば、下から這い上った中もあります。左大臣と右大臣もあります。社会は彼らのもので、彼らが社会の構成員です。彼らが私たちを見ています。社会が私たちを見ています。
見ればよい。
私には関係がない。私が見つめているのはお前ではない。私の、かわいい光る君。
(⚠ ここから妄想に入ります。
桐壺更衣に聞こえていた幻聴をお楽しみ下さい。)
もしや帝は光る君を次の春宮にするおつもりではなかろうか。
いや、それは。
しかしこの儀式は普通ではありませんぞ。
確かに。確かに。
いや、それは、あのように優れた御子であるのだから、いたしかた。
まことにそうお思いか?まこと優れていると?臣としてそう言ってるだけなんじゃないの?
ななななな、何と失礼な!
まあまあ、落ち着き給え。
確かに。我々、平安貴族にとって、光る君が優れているかどうかという事よりも、このような例はないという事の方が問題ではありますな。
諸君、この国家予算を注ぎ込んだ儀式の規模、何と見る?
私は反対ですね。最愛の更衣の可愛い御子かもしれませんが、帝でしょ。駄目ですよ。
私はいいと思います。だって帝ですから。
帝だから駄目なんだって!おい、俺たちの中央集権国家がこんなんでいいのかよ!あの時から、俺たちのご先祖のあの方が、これを志したあの時から、俺たちは代々これを築き、血みどろになりながら守ってきたんじゃなかったのかよ!
うーん、そんなに大事かなあ、中央集権って。
何だと!貴様、それでも藤原か!歯を食いしばれ!
きゃー。(一同、騒然)
もういいよ、藤原。俺たち頑張ったよ。俺も藤原だしな。
う、う。(一同、嗚咽)
中央集権体制なんてなくても俺たちの国には昔から王はいたんだよ。だから、さ。
ふっ、我々は少々、中央集権国家の熱風に浮かされていたのかもしれないな。
そうだ。これは我々の国の問題なのだ。今回の出来事は、我々の帝は何者なのかということを我々が再認識するために必要な出来事だったのかもしれない。
では諸君、あらためて聞こう。はっきり言って一の御子よりも明らかに盛大な光る君のこの儀式、これはそういうことでよろしいか。
で、でも、律令が、秩序が。
何だよ何だよ、まどろっこしいなあ、みんな、言ってるじゃんかよお、光るように美しい光る君って。
そ、それって、ま、まさか。
そうさ、その、まさか、なのさ。そもそも中央集権体制にはそれほどの力はないのさ。本当に力があるのは…
で、では、いろいろ言われているけど、この帝、もしかしたら恐るべき…
(⚠ はい!妄想おしまい)
ごめんなさい、ごめんなさい、光る君。
私はあなたの大切な御式を目の前にしながら、こんな妄念に心を奪われていました。そして妄念から我に返ったのも、清らかなあなたのせいではなくて、ありもしない白昼夢のあまりの恐怖のせいでした。私も藤原だから…。だからその先はもう考えません。あなたを見つめていますから。
袴着の儀。
私は光る君だけを見つめました。すると世の中の全てが一切、存在を消しました。右大臣も、左大臣も、社会も、国も。帝でさえも。
いえ、光る君の眩しさに私さえ存在しませんでした。ただそこに光る君だけがありました。
光る君だけが。