『すずめの戸締まり』をめぐる議論

原文(中国語)日付:2023年3月24日
訳文(日本語)日付:2024年10月26日
 
思ひつつ寝ればや人の見えつらむ
夢と知りせば覚めざらましを
 
キーボードを叩いたとき、この雑記をどのような形にしようかと逡巡した。結果、説明文の枠組みを残しつつ、意識の流れを借る。従って、この雑記が少々混乱で、(筆者が作った)敷居も高いと思うから、ご容赦ください。

一、はじめに
二、『すずめの戸締り』について
三、世界系と物の哀れ
四、終わりに
 
一、はじめに
 
2023年3月24日、新海誠氏監督の新作映画『すずめの戸締まり』は中国大陸で上映した。驚かないのは、香港やマカオ、台湾など東アジアの地域より遅れたことだ。3月19日まで、『すずめの戸締まり』の興行収入は、日本で141億円を超え、同じ新海氏の作品である『天気の子』の後塵を拝している。
おもしろいと思うが、新海氏の作品は観客と3年契約を結ぶかのように、いつも二三年で作っている。その中には、『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』『君の名は』のような人気作もあるけど、『星を追う子ども』『天気の子』のような問題作もある。でも、『君の名は』以降の新海氏は、商業映画と文芸映画のバランスを(不安定的に)見出したことで、一夜にして細田守や庵野秀明を凌ぐサークルのスターをなった。今、ポスト宮崎駿時代における最も高く評価されるアニメーターと言われてもよいと思う。ちなみに、『星を追う子ども』と『すずめの戸締り』に宮崎駿の影も見える。
 
残念ながら、僕は新海氏の作品をすべて見たわけではなく、先回は『君の名は』だった。『天気の子』はただ表面をなぞった程度だったが、去年、大学授業の発表のために、『秒速5センチメートル』と『言の葉の庭』をさらに2回見たことがある。新海氏の作品はいつも繊細な壁紙の輪郭線に切なさがじんわりと伝わってきて、『すずめの戸締まり』もそうなものだ。でも、『君の名は』のような輝きを再現するのは、僕として難しいと思う。
これは構わない。実際、新海氏も、『君の名は』の成功によって、もう何かを証明する必要はない、及び、今後は好きなことをやっていきたい、と言った。賞賛でも、否定でも、『すずめの戸締まり』の上映と共に新海誠の時代につながるだろう。

二、『すずめの戸締り』について
 
『すずめの戸締まり』を見れば、こんなことを気にできる。すなわち、新海氏は『星の声』から始まり、『曇のむこう、約束の場所』と『星を追う子ども』を経て、ある夢を見続けている。途中で挫折を味わいながらも、諦めないという声を伝える。
『すずめの戸締まり』の着想は、新海氏が日本各地を旅行して、人口減少によって動植物が人間の住む土地に戻ること、及びコロナ禍時代の新宿の寂しさに気づいたことから、人生について考えるようになった。つまり、始まりを祝う儀式はあるのに、なぜ終わりを祝う儀式はないのか。
こんな思いから生まれた『すずめの戸締まり』は、主人公が旅の途中で見聞きした物語を綴るロードムービーだ。新海氏の作品を振り返ってみると、男女恋愛を減少し、社会生活をより重視し、神学から見える生活へ移行し、人間の愛を社会的なレベルに昇華させようとすることがよくわかる。この欠点は、『天気の子』のように感情線が唐突で硬くなることだ。特に大災害のあと、すべてを失い、新しい生活を創造し、決してあきらめない生命力を描くのは、日本ほど適する国はないだろう。
 
三、世界系と物の哀れ
 
日本文化研究者の東浩紀さんは、「世界系」をこのように解釈した:
 
セカイ系とは「主人公とヒロインを中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」であり。
 
要するに、壮大な背景に、人物関係の相互作用を通じて、筋書きを展開させることで、時代の流れの変化を特定の人物に象徴させるとともに、人物の行動も物語の方向に影響を与えられる。この点から見れば、新海氏と司馬遼太郎さんは同じ作り方をしていると思う。不可抗力に包まれる主人公が、何度も何度も別離と孤立を繰り返し、観客を感動されるだけでなく、大きな喪失感を生ませる。
いわるゆ「物の哀れ」は日本独定の美意識で、本居宣長はこのように説明した。
 
その「もののあわれ」は何を意味しているのか。彼はいう、「あれば」とは、「見るもの、聞くもの、ふるゝ事に、心の感じて出る。嘆気の声」であり、「もの」とは、「物いふ、物語、物まうで、物見、物いみなどいふたぐひの物にてひろくいふ時に添ふる語」である。
従って、「何事にまれ、感ずべき事にあたりて、感ずべき心をしりて、感ずる」を「物のあはれ」を知るという。感ずるとは、「よき事にまれ、あしき事にまれ、心の働きて、あゝはれと思はるゝこと」である、『古今集』の漢文序に「感二鬼神一」と書いたところを、仮名序に「おに神をもあはれと思はせ」としたのは、この事を証明する。
後世、「あはれ」という言葉に哀の字をあて、ただ悲哀の意にのみとるのは、正確な用法とは言えない。「あはれ」は悲哀に限らず、嬉しきこと、おもしろきこと、楽しきこと、おかしきこと、すべて嗚呼と感嘆されるものを皆意味している。
 
これは『曇のむこう、約束の場所』に出てくる非常にクラシックな台詞を思い出させる:
 
サユリを救うのか、世界を救うのかだ。
 
このトロッコ問題は、『天気の子』にも出てくるのだが、自分の責任にまだ気づいていない少年(日本に代わる)にとって、世界よりも恋人のほうが大事だ。
伝統的に、恋とは「ひとり悲しい心」で、愛とは「胸がつまるような感じ、感情が痛切に迫って、心が強く打たれるさま」だ。それでは、『萬葉集』を読んでみよう:
 
鳴神の 少しとよみて
さし曇り
雨も降らんか 君を留めん
鳴神の 少しとよみて
降らずとも
我は止まらん 妹し留めば
 
お互いの気持ちを距離感で隔離するのは「愛しても愛できない」というものだ。実は、『曇のむこう、約束の場所』以前の新海氏が描いたのは、会えないからこそ恋い焦がれる主人公たちの物理的な距離で、それでも想いは伝わるということだった。しかし、『秒速5センチメートル』以降、新海氏が描いたのは、この世で最も遠い距離とは、会えないことではなく、心が徐々に流され、疎外感を募らせていくことだ。その結果として、遠野貴樹と篠原明里の悲劇が生まれたということだ。 藤津亮太さんの説明のように、主人公たちが失うのは「恋人」ではなく、「恋人になれる人」という曖昧な概念の喪失と「成人式」だったというものだ。だからこそ、観客の記憶の奥底には必ず、ある人に恋をしたけれど取り戻せなかった青春の思い出があるから、この映画は人気の原因だ。
しかし、新海氏は、繊細な感情の糸の片隅に、壮大な時代の物語を散りばめることを決してあきらめなかった。それは、初期の作品はもちろん、『秒速5センチメートル』の鹿児島ロケットの打ち上げや、『君の名は』と『天気の子』のまったく異なる東京、そして随所に見られるオリンピックの雰囲気など、中後期の作品にも顕著だ。「失われた30年」元年を皮切りに、世界系はむしろ積極的な戦略となる。
同時に、新海氏のスタイルの欠点も露呈してしまった。劇場用長編を水増しすることなく埋めることができない、これは彼の作品に繰り返されてきた問題であり、だからこそ『言の葉の庭』のような短編モードに逆戻りするのは完璧なのだ。こうして、物語-リリシズムに翻弄され続けた末に『君の名は』が誕生し、完璧なバランスと商業的な成功を収め、観客は新海氏の前進を見ることができた。
 
四、終わりに
 
今まで、この部分を追加するかどうか、「無理に盛り上げる」かどうか、まだ決め切れていない。というのも、本当は負担をかけずに映画を楽しみたかったのだが、今にして思えば、様子を見るためにそのままにしておくことにしたのだ。
『すずめの戸締り』はもちろん(少なくとも商業的には)成功し、出資者を満足させるに十分な結果を残し、それを否定するつもりはない。しかし、新海新の欠点はやはり明らかだ。まず、ロードムービーとしてはともかく、コピーペーストのプロットとしては物語が退屈で、描かれるNPCはすべて色彩に乏しく、したがってむしろ単調で、何の印象も残らない。シャットダウンが何度も繰り返された挙句、観客の最終決戦への興味は薄れ、明らかに食欲はそそられるものの、満足はさせられない。2時間程度の持ち時間があるにもかかわらず、過剰な内容を詰め込もうとしたため、各セグメンテーションが浅くなり、結果的に多くの内容が素晴らしく聞こえるが、実際には物足りなく感じられる。
次に批判が多いラブ・ラインだが、主人公とヒロインの関係は唐突で非論理的なままだ。この映画の当初の設定は、女性二人が主人公だったが、映画にはまだ少し感情的なドラマが必要だったため、宗像草太のペルソナを男性に変更したと言われる。この噂が本当なら、人間関係のセリフの不可解さを説明できるが、その一方で、この移動が余計なものであり、本来の物語の緊張感を引きずっていたことも示唆する。
最後の点は、いずれにせよ、新海氏、あるいは現代日本の問題点。災難の描写が、被災者がもたらした損失と苦しみに焦点を当てる一方で、震災の原因や、被災者の後に続く人々が震災を乗り越えて新たな人生を歩む方法について語ることを避ける。これは意図的なものではなく、集合意識に潜む本能のようなもの、つまり、考える必要はなく、ただ時間や一般的な流れとともに自然に風化していく。このような忘却とhappy endingで被災者を慰めるのは、無責任だ。
同様に「忘却」といっても、そこには二つの意味がある。高橋雅延によれば、その一つは、長い年月がたってしまうことで、記憶が消滅してしまうケースである。もう一つは、どこかに記憶としては残ってはいるが、それをうまく引き出さないケースである。本論文では第二の意味を強調したい。すなわち、かつての出来事は、どのような要因によって忘却され、想起されるという問題、及びその間に介在する政治的力学についての観点である。

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