蛇腹市場(5656字)
1.
一夜にして島には港ができていた。待合室も船も、まるでずっと昔からあったよう。島には伊丹丹が一人で暮らしていた。潮の引き際を狙って釣りをしたり、森で果実を拾ったり。そうやって暮らしてきた。あるとき、彼は思い立って島内を探検したことがあった。だが、他の誰とも出会うことはできなかった。
しかし他人をみたことがない訳ではなかった。たった一人、彼の暮らす島には訪問者がいたからだ。その男は自らを〝マジシャン〟と名乗った。マジシャンはいつも唐突に島の洞窟から現れる。伊丹丹は何度か洞窟に入って調べてみたことがあったが、マジシャンの秘密は何もみつけられなかった。本人に聞いてみると、それはマジシャンにしか無理なことらしい。マジシャンは、まるで魔法としか思えない様々な術を伊丹丹の前で試した。
「これはすべて実験で、自分がいなくなればなくなる」とマジシャンはいっていた。事実、いつも彼が消えると魔法も一緒に消えた。だから、今回の港もきっとマジシャンの術の一種なのだと伊丹丹は思った。ただ、これまでと違うのはマジシャンの姿がないこと。新しい魔法でどこかに隠れているのだろうか。
ただ、そうじゃなかった場合、これは術ではなく現実ということになる。
伊丹丹はターミナルのベンチから外を眺めた。港に広がる水面に真夏の太陽が反射し眩しかった。奥には乗船予定の船がみえる。待合室に彼以外の乗客はいない。ボストンバッグにはロビンソンクルーソーの小説が入っていた。出発までにはまだ時間がある。伊丹丹は本を読みはじめた。
2.
かつて観光を基幹産業としていた島は、数年おきに発生するパンデミックの影響もあり徐々に経済が衰退していった。世間ではVR技術の高度化が進み、人々は移動せずに好きな空間を観光できるようになった。パスポートを忘れることも飛行機に乗り遅れることもない旅。それでも現実には敵わない、しばらくの我慢だ。島はそう信じていた。その後もVR技術は非現実性を伸ばしていき、そして脳内のイメージを仮想現実化する脳描技術が誕生した。次第に人々は実際に行く旅行より、椅子の上で体験できる手軽さに慣れていった。ようやく島は観光とは別のアイディアが必要なことに気づいた。
「カリフォルニアのように温暖な気候は、開放的でチャレンジ精神のある人々を呼び込める。つまり、この島にぴったりだ! これから我々は東洋のシリコンバレーを目指す」
現地での視察を終えた島の首長は、帯同した地元記者に向けてそう宣言した。それから大リーグの試合を観戦するため足早にその場を去った。こうしてはじまった東洋硅谷計画には多くの出資が集まった。かつて土産品を買う観光客でにぎわった通りは、様々な電子部品を扱う巨大な電機卸売街へと生まれ変わり、その歪で密集した独特の形状から、通称〝蛇腹市場〟と呼ばれた。一時的に島の経済は回復し、首長は再選を果たした。だが安易なこの計画は次第にほころびをみせ、二度目の任期終盤になると完全に頓挫していた。温暖な気候と開放的であることの関係は何もなく、チャレンジ精神の多くはただの無鉄砲だった。東洋硅谷計画に参加した人々の多くは何とかなると未来に漠然とした希望だけを持っているようなタイプの人間たちだった。投資が多く集まったのは、島の人件費が安く、税制優遇の措置があったりと単に投資コストが安かっただけであった。
蛇腹市場では国産品と海外製の粗悪部品が同じカゴに混在し、バラ売りされていた。すべてにおいて島は甘く、また適当であった。計画の破綻後に残されたプレハブビルの残骸たちは翌年の大型台風で多くが倒壊した。それらは計画の軽さを象徴しているようにさえ思えた。そうやって、僅か数年ではあったが東洋硅谷の発展を支えた蛇腹市場もまた終焉を迎えた。市場が閉鎖されると、次第にそこには家電が不法投棄されるようになったが、地元当局も廃棄コストを考え投棄を黙認するようになった。閉鎖された蛇腹市場では、密かに海賊版のソフトや機器を作ってあの手この手で売りつける者たちが住みつくようになった。
伊丹丹もその一人だった。彼の経営する丹丹商店では、ユーザーが脳内で形成した独自の島に住むアバター同士を往来させることができる放置系の脳描空間〝貝楼諸島〟で使用する電子部品の海賊版を製造していた。彼が作っているのは脳描空間タッチ用の指先ウェアラブルの海賊版で、そこに正規品にはないような機能を実装して販売していた。経営してるといっても、社員は彼を含む数人の不法滞在している外国からのエンジニアたちだった。伊丹丹たちは東洋硅谷計画の際に特別ビザの発行を受けて入国した外国人労働者だが、今も市場で暮らしていた。もし警察に見つかれば退去になるが、蛇腹市場の海賊版製品たちがあげるいくらかのお金は街の経済にも貢献しており、面倒事さえ起こさなければ生活はできていた。
仮に故郷に帰ったとしても、もうそこにかつての姿はない。クーデターによって政権が変わったのは、伊丹丹が出稼ぎのために島に来た直後だった。人々は陰湿な管理下に置かれるようになり、国へ戻った友人たちからも良い話は聞かなかった。外に住んでいたという理由だけでスパイ容疑をかけられることもあるという。個人的なメッセージのやり取りすら注意を払わなければならないと友人たちは漏らしている。
――俺はどこにもいけない、ここで暮らすんだ。
昼飯を食うために訪れた食堂で、伊丹丹は注文したチャンポンを待っていた。脚のバランスが取れていない丸椅子は座り心地が最悪だが、安くて肉も野菜も摂れるチャンポンは最高だった。食堂は昼夜を問わず、いつも満席だ。隣に座っていた2人組の男が新聞を広げながら談笑していた。彼らの作業着の胸元には、今はもう無くなった蛇腹市場商工会議所の刺繍が入っている。テーブルには半分ほど空いた焼酎のボトルがあり、つまみの耳皮チップスの周りには数匹の蝿が飛んでいた。
「首長が変わるのか、こいつかよ!」
男の一人が新聞の一面を指差しながらテーブルを叩いた。驚いた蝿が別のテーブルに飛んでいった。
「前の奴は上手く金を積んだのに駄目だったな」
「今度も通じるさ。この世で大事なのは金と調整だ」
伊丹丹は届いたチャンポンをかき込みながら横目で新聞をみた。たしか、ニュースで取り上げられていた若い政治家だ。大学時代から政治家を志し、シンクタンクで勤務して今回が初出馬だったらしい。これまでの島の政治家にない理想的なキャリアだったこともあり期待されているらしい。とはいえ選挙権のない伊丹丹にとっては関係ない話だった。とりあえず今が続けばいい。今月中には指先ウェアラブルの新しい機能を実装しないといけなかった。
そろそろ徹夜になりそうだ。伊丹丹はゴミ箱に皿を投げ捨てると、ぬるくなった水を一気に飲み干して食堂を後にした。歩いていると酸っぱい臭いがしたが、それが自分の体臭なのかこの街のものなのかはわからなかった。ゲップが出た。チャンポンの匂いが鼻を抜ける。しばらく風呂に入っていないことを思い出した。
3.
伊丹丹は改良中の新しい指先ウェアラブルを装着すると、メンテナンスモードで貝楼諸島に入った。ここはテスト用に彼が作った島で、他のユーザーからはアクセスできない仕様になっている。洞窟から出た伊丹丹は茂ったアダンを掻き分け、砂浜に出る。空は真っ暗で波の音だけが聞こえる。指先で夜空に向けて爪をはじくと、そこに星が生まれた。これが新しい機能だった。実装すればユーザーたちは好きな形に星を並べて星座を夜空に描くことができる。そして実際に具現化することも可能だ。そうやって自分だけの宇宙を作っていき、誰かと共有していく。
島の暗さは、故郷によく似ていた。彼は島の古い民話を思い出した。巨大な大蛇が村をぐるっと囲んでいて、外に一度出るともう戻れないという話。大蛇は村のなかにいるときは透明でみることができない。ただ、外に出てしまうとそのおぞましい姿がたちまち現れる。村に帰るためには、大蛇に飲み込まれなければならないというものだった。小さい頃はそれが妙に恐くて、祖母は彼が悪さをする度にこの話を持ち出した。
伊丹丹は浜に寝転がると、夜空に蛇を描いた。この星座生物も保存さえしなければ、次に来た時には消えている。その時、声がした。
「こんばんは、マジシャン。新しい魔法ですか?」
彼の隣にアバターが腰を下ろした。貝楼ではユーザーが不在の間も自立したアバターたちが島で生活を送っている。
「そうだ。ほら」
伊丹丹は指をはじいて空にいくつもの星を誕生させた。
「すごい! てっきり夜は暗いものだとばかり思っていました」
「本当は私が色々と精巧に作れば、他の島みたいにもっと鮮やかになるのだが……」
「他の島?」
「ああ。この海の向こうにはみえないだけで、いくつも島があるんだ」
アバターは驚いたようだった。
「それも魔法ですか?」
「いや、それは違う現実だ。みえないだけであるんだ、他の世界も」
「そうですか、みてみたいですね」
アバターは遠くを眺めた。その眼差しは村にいたときの自分と同じように思えた。
4.
新しい首長になると、蛇腹市場の取り締まりが厳しくなっていった。ビジネスも厳しくなり、社員たちも解雇せざるを得なかった。商店の二階にはかつて社員たちが住んでいたが、今はこの四畳半が彼の住居だった。通りの店は日が経つごとにシャッターの降りる割合が増えていった。特に市場の人間たちに衝撃を与えたのは食堂が無くなったことだった。その日、伊丹丹は気合を入れるために豪華な牛肉そばに助六寿司をつけてやろうと思っていた。店の前に着くと、人だかりができていた。描き分けて進むとガラス窓が割れ、テーブルや椅子はひっくり返っていた。以前は外国人労働者に限らず島の人間たちでも賑わっていたし、食堂でさえ取り締まりの対象になったことは伊丹丹たちに今度の取り締まりは本気だということをわからせるに十分なものだった。
目を覚まして時計をみると、昼を過ぎていた。一階の店舗部分に降りると外が騒がしいことに気づいた。
「逃げろ!」
「やめろよ、おい!」
「放せ、クソが!」
外から聞こえてくる悲鳴や大声に驚き、窓を少し開け外を眺めた。そこには警官隊とそれに追われる蛇腹市場の人々の姿があった。
一斉検挙がはじまったのだ……頭ではわかっていた、いつかは起こるだろうと。ただ起こらなかっただけ、それが今起きている。不法滞在者の多い蛇腹市場では、蟻塚から飛び出す蟻のように捕まえるための理由はいくらでも湧いて出てくる。もはや、伊丹丹たちはただの犯罪者に過ぎない。警官隊たちはどんどんと近づいてきていた。
伊丹丹は急いで二階へ戻った。もうこの世界にはいられない。他の島との接続ターミナル機能を拡張し、島のアクセス権を解除した。バックアップ用のオフラインデータを物理デバイスに移動させる。悲鳴と怒号が段々と大きくなる。50%が完了した。
「おい、ここも調べろ!」
商店の前で警官の声がした。85%完了……一階の扉が強引に開かれ警官たちが入ってきた。伊丹丹は地下にある部品の保管庫の警報を鳴らした。
「下から何か聞こえるぞ。地下室があるのかもしれん!」
100%完了。伊丹丹はデバイスを持って、窓から隣家の屋根に飛び移った。そして、そのまま走り出した。蛇腹市場を覆うビニール屋根は穴がところどころ空いている。下では逃げ惑う人々と警官隊が交錯している。イチかバチか伊丹丹は反対側へ渡るためにビニール屋根を飛んだ。それをみつけた警官が商店の二階の窓から叫んだ。屋根の梁に捕まる。落ちれば終わりだ。逃げる、今はそれしかない。必死に身体を引き上げ、また走り出した。
5.
港の待合室で本を読みはじめてしばらくして、アバターは疑問に思った。
「……まだ時間がある?」
伊丹丹はあの船がどこへ行くのか、なぜ自分が乗ろうとしているのかわからないことに気づいた。バッグのなかを探るがチケットもない。そのとき、乗船準備が完了したとアナウンスが流れた。
外に出ると炎天下特有の蒸し暑い空気が彼を包んだ。アスファルトの向こうに逃げ水がみえる。職員に行き先を聞こうと思ったが姿は見当たらなかった。乗船用のドアが開いていて、なかに入ると汽笛が鳴った。ドアは閉まり船が岸を離れた。彼は前方の操舵室に走り、扉を叩いた。
「はい。どうなさったんですか?」
水兵帽を被った女が扉からでてきた。彼にとってはマジシャン以外に初めて接する人間だった。
「あの……この船はどこへ向かっているんですか?」
「次の島ですよ。貝楼諸島を巡回する連絡船ですからね」
女はくすっと笑って外を指差した。そこには初めてみる群島の景色が広がっていた。船は東の島から回ってきたという。これはやはり魔法ではなかったのだ。すべて現実。女は呆然と船内を見回す伊丹丹をみて、耐えきれず声を出して笑いだした。
「変な御方。そんなに珍しいならここで働きます?」
「えっ?」
「巡回する島はまだまだ増えていきます。船員は必要ですから御遠慮なさらずに」
女は永遠江と名乗った。伊丹丹は彼女にいわれて、黄色く熟したイーブリガコール(※1)をコンテナから運びだす作業に取り掛かった。イーブリガコールは成長すると数メートルほどにもなる野菜で、様々な島で食べられているらしい。大きさの割には軽く、次の島へ卸す分を運び終えるのに時間はさほどかからなかった。
作業を終えた伊丹丹は一息つくためにデッキへと出た。海面には群れとはぐれたであろう一匹のナキクラゲ(※2)の姿がみえた。ナキクラゲは脱皮する際に泣くと聞いたが、この一匹は寂しさからも泣くのだろうか。そんなことを考えている内にナキクラゲは船が起こす波に飲まれ、逆方向へ流されていった。伊丹丹が自分の暮らしていた島の方を振り返った。島を囲む巨大な蛇が舌をちらちらとさせながら彼をみつめている。島は段々と小さくなり、やがてみえなくなった。【了】
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・本作内に登場した他の「貝楼諸島」参加作品たち
(※1)イーブリガコール
『イーブリガコールの微笑み』 鞍馬アリス
(※2)ナキクラゲ
『永遠のクラゲたち』 まつきりん