「哀愁の町に霧が降るのだ」を読んで、東京の東の端で思ったこと
土曜日、九月十一日に椎名誠「哀愁の町に霧が降るのだ」を読了した。青春の話であった。一番好きなのは以下の箇所。克美荘日記の木村晋介の書いた部分である。
70年代、当時の木村青年はおそらく22歳くらいだろうか。弁護士になるために、克美荘(という小岩の古いアパートの、狭い六畳部屋での男4人共同生活)に毎日こもって勉強をしていた。昼間、仲間が学校なり、仕事・アルバイトに出かけている間に勉強をして、夕方になると仲間のために夕飯をつくって待っている。そんな当時に書いた文章である。
埼玉の実家に飾ってあった絵葉書を思い出していた。おそらく、姉が学校の図工の授業で描いたものである。当時の姉が中学三年生だから、私は10歳くらいであったかと思う。バスケットボールとバスケットボールシューズの絵と、”みんながいたから自分も頑張れたんだと思う”と書いてあった。なぜだかわからないが、それを今でも覚えている。
翌日の日曜日、九月十二日は自転車で柴又帝釈天に行ってきた。かねてから、妻が行ってみたいと言っていたことと、哀愁の町、というか東京の東の果てに行ってこようと思ったからである。
浅草から柴又までは自転車で一時間弱であった。隅田川、荒川、中川を超えて、江戸川の手前に柴又はある。江戸川を越えればそこはもう千葉である。
柴又に来るのはこれで三回目であった。最初は中学生のころ。二回目は大学生になって、「男はつらいよ」を見て再びやってきた。そうして今回が三回目であった。
最初と二回目に来た時は、帝釈天にお参りはしたものの中庭と彫刻堂に入ることはしなかった。今回初めて、そこに入った。たぶん、一人であったらやり過ごしていただろうと思う。連れと一緒であったから入ってみようかと思ったのだと思う。して、入ってみるとそこは思った以上に善き場所であった。
何より静かである。中庭を見て回って、彫刻堂に入った時にお経が始まった。それまでの静寂の隙間を埋めるかのようにお経が響く。奇妙に心落ち着かせる音である。
本堂でお参りをしてから、参道に戻り、目についた茶屋で天丼を食べる。天丼 上 1,620円。大きな海老が二尾乗っていた。
食べ終えて、草団子を持ち帰りで購入し、駅の方まで来た。ざっと一回りしてから自転車で江戸川の土手に上る。一回目に来た時はここを南に下っていった。二回目の時はここで一人煙草を吸った。たぶん、年末の寒い時期であった。だから、ここからの景色もよく覚えていた。何もあの頃と変わっていないように思う。
大学生の時に初めて見た「男はつらいよ」のレビューがあったのでここに引用してみる。ちなみに、これは二回目の柴又の前である。
こうして改て読んでみると、とても若い文章であると思う。それはそうだろう、あのころはまだ大学生で、いろいろを知る前、諦める前であった。そういう時にしかできない表現というのはあるのだ。
以下、備忘のため「哀愁の町に霧が降るのだ」の解説からの引用。この解説を読んで、椎名誠をGoogle画像検索して、なんというか、椎名誠は信頼できる作家だと思った。
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