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なぜ哲学的な話をするのが好きなのか

本屋をひらいて約3ヶ月が経った。

もともと儲けようと思ってはじめたわけではないものの、思っていた以上に業績は振るっていない。業界の構造のシビアさはわかっていたものの、やってみて、ほんとにシビアだな〜と痛感している。

それはさておき、来てくれた方とじっくり哲学的な話をする時間がとにかく楽しい。経済的合理性でははかれない価値を体感している。

この感覚を味わってしまったら、この時間を長く味わうためにはどうすればいいだろうという欲が出てくる。つまり、そんな時間で生計を立てるにはどうすればいいかと考え出す。

妙案は浮かんでこないが、「そもそもなんで哲学的な話をするのが好きなんだろう」という問いは浮かんでくる。そのためには、「哲学的な話」とはなにか考えなければならない。(「好き」ってなんだろうということはここでは言及しない。)

まず、「哲学的」とは辞書によると「物事を根本的に考えるさま」だ。つまり、「そもそも」について考えること。

わたしたちは社会のなかでたくさんの悩みや葛藤や課題を抱えて日々戦っていて、「たしかに今すぐ向き合わなきゃいかないことが目の前にたくさんある。だけど、そもそもこの社会を形成している人間ってなんなんだ」とか考えてしまうこと。

人生のどこかのタイミングで人間や人生の不思議に直面してとまどいを覚えた人は、そういう問いがどうしようもなく気になってしまうのだと思う。

そういう人のはなす人間観や人生観みたいなもの。
それがわたしの好きな「哲学的な話」だ。

そして、なぜ「哲学的な話」が好きなのか。
それは、「その人そのもの」の情報だからだと思う。

普段のわたしたちの会話においては、立場や状況や経済的合理性によって切り取られた、その人全体のごくわずかな部分と、わたしのごくわずかな部分とが接するようなやりとりが行われている。

それは、そのシーンの目的に沿った挙動なのでなんら否定されるものではないが、そればっかりじゃつまらない。

それに対して、立場や状況や経済的合理性を排除した、目的のない、あるいは生きることそのものに対する目的や態度としての人間観や人生観といった話には、その人がその瞬間まで生きてきた全てが言葉のひとつひとつに凝縮される。つまり、「その人そのもの」の情報を聞くことができる。

わたしにとっての「本屋」という言葉と、その人にとっての「本屋」では意味が違うだろう。わたしにとっての「人間」と、その人にとっての「人間」では意味が違うだろう。仕事、家族、社会、幸せ、思いやり、尊重、優しさ、信頼、信用、そういうものが全部違う。

そういう無限ともいえる「差異」があって、「重なり」もある。

内面的にみればわたしたちはまったく違う世界を生きている。
その差異との出会いに驚きや興奮を覚えるし、時に恐ろしいとも思う。
その重なりを見つけることはとても嬉しいけど、完全に同じということはない。

そういう、わたしの知らないその人のドラマのすべてがつまった人間や人生の見え方、捉え方に触れることに知的好奇心をくすぐられる。わたしも「その人そのもの」に反応して人間観や人生観をさらし、磨き合い、世界観が満たされていく感じが心地よい。

だから、わたしは哲学的な話をするのが好きだ。

その時間のために、人間観や人生観を磨くべく本を読んだり、本屋で待ったり、文章にしたり、哲学対話の場をひらいたりする。

それが実用的じゃないからよいのだが、他者との差異や重なりを認知したり、そもそも人間とはなんなのか、どう生きるべきかといった問いに向き合うことは、社会を形成して生きる人間にはとても大切なことだと思う。

生き方の正解がなくなった世界で、自分でものごとの意味や価値を吟味したり、社会とのつながり方を問いなおしたりして、より納得感のある生き方をするために哲学的な話をする時間の価値を信じつつ、純粋に「好き」という衝動をもってこの活動を続けてみる。

<直近で哲学的な対話の場をひらくのでご案内>


今後も人生観を磨け合えるような時間のために場をひらいていくので、哲学的な話が好きな方はぜひ当書店や対話の場でお話ししましょう。

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