見出し画像

盛り付けをがんばってみる

 こんにちは。最近、ポップコーンにハマってるとまよこ りゃんシーです。脂質も低いしたくさん食べれて楽しい。

 ステロイドですが、毎日ほんの爪楊枝の先っちょぶんだけ塗って寝ることにしました。効いてるか効いてないか分かんないけど若干夜間低血糖が治ってる気もする。お風呂あがってから寝るまでの間に低血糖になってなんか食べたり歯磨き直したりするのが凄く嫌なんだけど、それが少し治った気がする。あと酪酸菌、ヤクルト、ビフィズス菌全部やめたら下痢は治った(笑)大腸炎も少し良くなった。良かった…。。レクタブルが処方されるまではそれで何とかしよう。

 それで僕は今まで、食べたくなったら冷蔵庫から出して食べると言う食べ方をしてたんですけど、ちゃんと食卓に並べて食べた方が良いのでは?と思って最近は盛り付けをちゃんとするようにしています。

 コツは「少しずつ盛り付ける」ってことですね! 盛り付けが綺麗だと食欲も沸くし。

 あと最近気付いたんですが、脂質を摂ると1分くらいで体調悪くなるんですよ。もし脂質が消化できなくて腸に溜まって炎症が強くなってコルチゾールが大量に消費されてコルチゾールが枯渇して体調が悪い……にしては早すぎる(笑)もしかして脂質アレルギーなのでは???
 あとうちは母が海の出身なので海鮮料理が多いんですが、刺身ってけっこう脂質あるんだよな。食べて唇がペタペタってなるレベルの食べ物は腸に来ると言う事が分かった。。もう刺身食べるのやめる。

 前回の「なぜリーキーガット症候群に誰も気づけなかった?」っていう話なんですけど、まあ、便秘を放っておいたからなんだよね。僕自身が、便秘を当たり前だと思ってたんだよ。父も便秘症だったし、便秘をそこまで問題視してなかった。でもさ、「歯磨き」とか「便秘を治す」とかって、病院が対応するレベルのことじゃないんじゃない? 歯磨きしてない人に対して歯医者が歯磨きしてあげる事はないじゃん。それと同じで便秘を病院で治すこと自体がおかしいのかなと思うよ。
 まあ、子供の頃からストレス抱えててそれを放置した結果ではある。ネグレクトってことなんだろうな。でも多少のネグレクトで病院行くわけないし…。まあ、生活保護受けるしかないんだろうね。それか刑務所か。
 悪循環なんだよね、ストレスから病気になって、どんどん弱者になってストレスになって。その悪循環を断ち切る方法が福祉には存在しない。だから恵まれている人しか救われないんだよな…。
 まあ、そのために『感情ローテーションワーキング法』を考案したんですけど!

 そういえば生まれてこのかたずっと自分が「もし女だったら」どんな感じなのか上手くイメージできなかったんですけど、最近「女の子になりたい!」と思うようになってきたね。
「いや、お前女だろwww」て感じなんですが、僕のなりたい女の子って結局「オタクの考える女子」って感じなんだよなあ。確かに32年生きてて、女性コミュニティに「オタクの考える女子」みたいな子っていなかったなあ……いても生きてはいけないと思う。生活保護か刑務所か精神病院か、運が良ければお母さん。まあ理系のほぼ男子校だったんであんまり女子のこと知らないんですけどね。
 テストステロン打ちたくね~な~(笑)男社会に入りたくね~な~! 性欲もずる賢さもない、「妖精さん」みたいな女の子でずっといられたらいいのにな~って思うよ。でも、一生そうやって生きてくの? 友達も恋愛もできず一生嘘ついて生きてくの? バ美肉と訳が違うんだぞ。てか、妖精さんって柄じゃねーし。

 はい、あべメンタルクリニックに行ってきました。噂通り優しい人だった。お年寄りだからもう責任取らなくて良いし若い人の好きにさせてあげようと思ってるのかもしれない。田中さんが辞めてくれたのがでかい。あの人の紹介状のせいで今まで断られてた気がすんだよな…。
 それに「今、性同一性障害って言わないけどなんて言うか知ってる?」って聞かれたんだけどその質問同業者にして? ちあきクリニックなんか今でも「性同一性障害」ってずっと言ってるから。「よく勉強してるね」ってそれちあきクリニックに言って?
 一応しばらく通うけど、遠い……中野からピッタリ一時間。隣がホテルだから一泊も視野に入れないとダメだ。東京駅から特急とか、中央線グリーン車!? なんてできたのか。でも行ってみるとちあきとあんまり乗車時間変わらないかも。
 で、また自分史を書き直させられました。病院によって微妙に書き方の指示が違うの困る。

 私は1992年7月に都内の国分寺市で生まれました。私が生まれてすぐ、母が更年期障害になり、私はいつも父と遊んでいました。検査技師の父は私を女の子だと思っておらず、自分の好きなもの(パソコンや知恵の輪、シンセサイザー、化学おもちゃや計算ドリルなど)を買い与えて満足していました。お人形も買ってもらいましたが父が飾ってばかりで、私もさして興味がありませんでしたが、一人っ子の私にとっての「お友達」として楽しんでいました。着せ替えよりも服を作り出すことが楽しく、また子供心に人形の服を脱がせることに背徳感を感じていたことを覚えています。
 幼稚園になり、男子とスカートめくりや「立ちション」などをして先生から怒られることが増えました。その頃には「女の子」に対する興味があり、不思議な事に自分が「女の子」であったことから可愛い女の子の服を着て写真に撮って可愛がるというような事をしていました。女の子の恰好をすると父が喜んでカメラを向けてくれるのが嬉しかった記憶があります。しかし、少しずつ自閉症の症状による周囲からの孤立が目立ち始め、私は引きこもって「お人形遊び」や買ってもらったゲームボーイで「ポケモン」などをするようになりましたし、成長するにつれ「自分」が女の子であるのは違うと思うようになりました。三歳の七五三は特に違和感なくできたのですが、五歳の七五三に出られないのは置いてけぼりにされた気がして悲しく、七歳はした記憶がありません。
ある日、バレンタインの日にとても可愛い女の子からクッキーをもらった事がありました。その時頭の中に花が咲いたような不思議な感覚になったのを覚えています。
 その後もなんとなく孤独感を持ちながらもゲームやアニメばかり観て過ごしていました。しかし、小学校に上がった頃に決定的な出会いがあります。「ポケモン」のアニメを観ていた時、主人公が懸賞の帽子を当てるのに「ハガキを1000枚出した」と言うシーンがあったのです。それに呆れるヒロインに対し、登場人物が「男と言うものは譲れないこだわりがある時があるんだ」と言っているのを聞き、すべてのピースがはまったように感じました。自分は男の子だと仮定すれば、全てのつじつまが合うように感じたのです。
 その後は小学校で「オレは男だー!」と言いながら過ごすようになりました。男女分けなどでいちいちごねて授業を停滞させる私にクラスメイトは辟易していました。ただでさえ頭が悪く勉強ができなくて「文字読めるのかよ」「お前は喋んな」などといじめられていた私は、「女の子のりゃんシーちゃーん」とからかわれたり「お前にはコレ付いてねぇだろ」と男性器を見せられたりするなどのからかいを受け、頭の悪さに叱ってばかりいた教師も「本当に男になりたいのか」などと聞いてくるようになりました。そんなことから私は反抗的な性格に育ち、学校で喧嘩ばかりするようになりました。ついには「附属中学には進ませられない」と進学を拒否され、いじめを心配した母が私立中学の受験を勧めました。母は私が勉強が不得意なのを見て女子美術大学附属中学校の見学に連れて行きました。そこである女生徒がわざと男っぽく振る舞っているのを見て、「痛々しい」と感じました。男子のいない空間で一番男子っぽくなってもそれは井の中の蛙だ。ちゃんと男子のいる所で男子として生活したいと思い、元男子校で制服にスラックスのある中学を受験しました。
 その頃テレビで「性同一性障害」という病名を知り、性別を変更する手術があると知りました。すぐに母にそれをしたいことを話すと、母は呆れたように「最大の親不孝」と罵り取り合ってくれませんでした。母はいわゆる「アダルトチルドレン」であり、またとても性格が悪く、傲慢な振る舞いや言葉の虐待をする人でした。もしこの家にいながら性転換をした日には毎晩母に怒鳴られながら過ごすことになるでしょう。手術する為にはこの家を出なければならない……そう決意しました。
 中学生活は順調でした。女子がクラスに10名ほどしかおらず出席番号も男女混合で、男女で分けるような授業もありませんでした。初めのうちは女子トイレに入ると驚かれていました。「性転換するまでは友達は作れない」と思い、友達を作らず静かに過ごそうと決意しました。修学旅行などの男女分けでは大人しくし、お風呂は目を伏せて入りました。生理と言う物を隠すために夜用のナプキンを一日中つけていました。「生理があると知られたら嫌だ」と言う意識は初潮の日からあり、その時は生理を隠すためにどうしたらよいか分からず赤く染まったズボンを履いたまま町内をフラフラと歩きまわっていました。手術費用を貯める為に昼食を抜き、全て貯金に費やしました。すべては男になれるまでの辛抱だと自分に言い聞かせていました。手術をする為には家を出なければなりませんでした。大学を卒業して就職するまで待てなかったので、大学は地方の大学に行こうと思いました。私立大学ではお金が足りないと言われたので、「国公立大学に合格し、一人暮らしをして、性転換をする」それが私の夢になりました。そして死に物狂いで勉強しました。周りはそんな私を白い目で見ていました。もちろん、友達などできませんでした。生徒会長もしていましたし、周囲は私のことを引いたような目で見ていました。「男女」の区別はすでに存在せず、周囲も薄々分かっているようで、恋愛や性別の話題を振られた事はありませんでした。名前も声もコンプレックスで、自己紹介が苦痛でした。なるべく人と関わらずに過ごしていました。
 無事国立大学に合格し、大学生になるとますますジェンダーで分類されるような事はなく、健康診断で女子更衣室で着替えていると「え、男子と更衣室共同なの!?」と驚かれたり「俺も裏声で喋ろうかな」など、男子として認識されている様子でした。一方、「手を見れば女って分かるよ」と言われたりすれ違いざまに「性同一性障害」と囁かれたり等の意地悪な扱いも受けました。その頃の私は声さえ低くなれば完全に男として扱われるだろうと思っており、まずは喉の整形外科へ行ったのを覚えています。そこで声を低くしたいと言うと声優養成所を紹介され、結局2年ほど通学しました。精神科に行くのはあまり乗り気ではありませんでした。「性同一性障害以外にも、自分には何か変なところがある」と言う事を薄々感づいていました。それを指摘されるのが怖い、という思いがあったのだと思います。その頃には「日本社会で就職する」と言う事は自分には出来ないと感じていました。なので起業するか、フリーランスとして生きる以外に方法はないと考えていたし、だからこそ戸籍の性別を変える必要性は感じていませんでした。ホルモン治療の危険性や費用については噂を聞いていたし極貧生活を送ることは目に見えていたので、「ホルモン治療をせず声だけ低くすれば社会的に『男』として生きていけるだろう」と考えていました。ただ、生理はなくしたかったので子宮は切除する必要がありました。生理があると漫画家として食べていくのは難しいと思ったし、ナプキンの用意などが上手くできなかったからです。
 ナグモクリニックに行くと精神科を紹介され、二十歳の秋ごろ、私は初めてジェンダー外来を受診しました。そこで初めて「発達障害の可能性がある」と言われ、「親を連れて来い」と叱られました。また私の当時の考えを話すと「それで就職できると思ってるのか」と叱られ私はすっかり怖くなり精神科に行けなくなってしまいました。先に漫画家としてデビューしようと頑張ったのですが、女だからと住み込みのアシスタントも断られ、自暴自棄になっていたのもあって飲まず食わず、睡眠もとらずの生活をしていたらそのうち不眠症になり月経困難症になり化学物質過敏症になり潰瘍性大腸炎になり、ペンも思うように持てず大学を中退し10年間寝込むことになりました。生理のたびに憎み、腹を切り裂いて今すぐ子宮卵巣を取り出してやりたいとか、胸なんかナイフで切るだけだろうと何度も自分で切り落とそうとしましたが、他人に迷惑がかかるのが怖くてできませんでした。一時期女性であることを開き直って振る舞ってみましたが、今度は周囲が違和感を感じたのか無視されるようになりました。女性コミュニティで女性として生きる事は自分には出来ない、と感じていました。
 そうして絶望してふさぎ込んでいるとき、幼稚園でクッキーをくれた幼馴染に「最近眠れない」とメッセージを送ると「大丈夫?」「散歩がてらお茶でも飲みに行こうよ」などと優しい言葉を掛けてくれ心が救われた気持ちになりました。しかしある日、2人きりでカラオケルームに入った時に異常に心拍数が上がり急に緊張してしまいました。でも不思議と幸せな気持ちで、もっと一緒に過ごしたいと思うようになりました。それから彼女の事を考えると胸が締め付けられるように苦しくなると同時に幸せな気持ちになり、彼女に触れたいと思うようになったとき、「これは友達に抱く感情ではない」と気付き、彼女のそばにいたら気持ち悪がられると思った私は「今まで楽しかったよ。結婚式には呼んでね」とメッセージを送りました。彼女から返事は来ませんでした。
 大学生の時に洋画の濡れ場を見ていた時に自慰と言う物は試しました。自分にも膣があり性的興奮をすると初めて知り悲しくなりましたが、自然と彼女の裸や彼女とのセックスを妄想するようになり、そのたびに陰部が濡れるのが不思議でした。彼女に似たセクシー女優を探すも見つからず、他の女性の動画で性欲を満たしました。彼女の事を考えながら自慰をすると罪悪感を感じながらも頭が真っ白になり、彼女の事以外考えられなくなりました。女性向けやゲイポルノ、レズものなどの動画も試しましたが全く興奮しませんでした。
 彼女に「恋」をしたと自覚して以来、私は精神的に安定したように思います。今まで世間の言う「常識」が何もわからず疎外感を感じていましたが、人の言う「恋」と言う概念を理解できた事で社会との繋がりを感じる事ができ、他者に対する親近感のようなものを持てるようになりました。人と話す時の恐怖が少し薄れて、自分も「人間」なのだと胸を張って言えるようになったし、また女性に恋をしたことで自分が男性である事がますます明確になった事も喜ばしかったです。しかしそれからと言うもの、女性を性欲の対象として見てしまう事が増え、上手く喋れなくなることが増えました。かと言って女性と接触しないわけにもいかず、今後グループホームに入居する際に女性と共同生活をするのは女性に失礼だし無謀な行為だと感じるようになりました。
 ホルモン治療については初めはあまり積極的ではありませんでしたが、月経困難症の治療で女性ホルモン剤を処方された時に、「これを飲むくらいなら男性ホルモンを打とう」と思って以来ホルモン治療に積極的になりました。潰瘍性大腸炎について消化器科でステロイド剤を処方された時も「テストステロン治療をするので免疫力が低下する可能性があるので、ステロイド剤は待って欲しい」と伝えると了承してくださいました。現在、片頭痛や胆汁鬱滞など、女性ホルモンによる体の不調がとても多く、長い療養生活で筋力低下も見られることから、テストステロン注射によって女性ホルモンを減少させ、男性ホルモンを増やすことは精神面以外の治療にもなり得るのではないかと期待しています。

 それでそこで聞いたんですけど、性別適合の許可をするためにはなんらかの職業についてないとダメなんだって。それがおかしいんだよね…だって性別が違くて社会生活送れないからGIDなんでしょ…? なんで職業持ってないとダメなの? 勝ち組しか手術受けられないじゃん。うつ病になってB型通ってから来いってことなの? 無許可フライングホル注して仕事始めてから来いって事なの? 意味が分からない。性別変える時みんな仕事辞めなきゃいけないのに…
 一応、今のフリーランスの仕事で自営業ってことでいけるらしい(?)んだけど、B型行ったほうがいいんだろうか。てかそれならもうグループホーム行ったほうがいいんだろうか…。まだまだ道のりが長い。なんでみんな23歳とかで手術できるんだ? 謎すぎる。ねえ、マジでなんでそんな制度なの?
 まあ確かにあの時「漫画家になるので就職はしません!」って宣言しなかったもんなぁ。漫画家になれるかも分からなかったし、まあ、就職できるならしたいとは思ってたし。就職する時にも、確かに社会的に男として扱われたいと思ってた訳じゃないって言うか、阿部先生にも「幸せだね」って言われたんだけど、よく考えたら僕って小学校以降そこまで女扱いされた事がないんだよな。勉強とか受験の世界に男女とかないし…副腎疲労の件がなければホル注もしないで「書類上は」女性として建築業界で働いてたかもしれないし……ああそうだあの頃はホル注しないで子宮だけ取ろうと思ってたんだ。それで声は手術で低くするみたいな事を言ったらすげ~キレられた。別に良いじゃんね、それで本人が良いなら…。
 生まれつき見た目のパス度が高くて女性扱いされないのに発達障害のせいで性転換もできず、居場所がなかったのが苦しさの原因だったかもしれない。
 どうしても男っていうジェンダーにこだわってたわけではなくて…Xジェンダーと言うか…性別とか恋愛とかそういうのから切り離された人間で良いじゃんと思ってたんだよな。人と深い付き合いをするつもりもなかったし、自分の城さえ守れるなら他人の目なんかクソどうでも良かった。だから「発達障害」って言われたんだろうな。それで良かったんだけどな…。

 それでは、便秘薬としてミントティーを飲んでるとまよこ りゃんシーでした。


いいなと思ったら応援しよう!

とまよこ りゃんシー@アイヌ子孫
発達障害なりに色々考えて生きてます。応援していただけると嬉しいです。