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僧侶不要論のアベプラに少しだけ出ました。その補足など。
ひょんなご縁から、僧侶不要論がテーマのアベプラの冒頭に少しだけ出演しました。
取材時にはかなり突っ込んだことまで話したのですが、放送ではほんのさわりの部分だけが使われたので、取材時にお話した私の考えをここに記しておこうと思います。
私の意見は、僧侶が不要だ、という暴論では全くなく、むしろ本質的な僧侶のみ生き残るのではないか、というものです。この点で、出演されている僧侶の古溪さんが放送で仰ったご意見とほとんど同じです。
一例をあげればいわゆる「葬式仏教」への猜疑心があり、それが故に葬式仏教をよすがにしている僧侶はこの先減少していくであろうと思っています。また他方で、本来の宗教家としての僧侶の存在感はむしろ増していくのではないか、と考えています。
葬式仏教に対しては、まさに父の菩提寺がそうで、祖父母の代から相当な額のお布施をしてきていたようですが、法事の度に僧侶が「この仏天蓋(寺によくあるシャンデリアみたいなやつ)は小菅さんのお陰で新しくできた」などと言うことに大きな違和感がありました。
それは仏教の本質から最も遠いことを自慢しているのではないか?と。
あまつさえ、父が逝去した際に戒名を信士(一番値段が低い戒名)でと伝えた際に電話口の向こうで「ええっ!!」などと叫ばれたことは忘れられません。祖父が院居士、祖母が院大姉(それぞれ一番値段が高い戒名)だったことを引き合いに、つり合いが取れない、とのことでしたが、本音はお布施の額が気になったのでしょう。なにせ菩提寺の僧侶は、繁華街での目撃情報には事欠かない、生臭坊主で有名だったのですから。
本来的にはそういった煩悩から自由になるための教えが仏教の教えなのでは?なぜその仏教で葬式を挙げるとなると、逆に煩悩に振り回されなければならないのか?その点で極めて大きな矛盾を感じました。
同時に、自身の死期を悟った父が、自身の葬儀のためのお布施にと100万円を用意していたのですが、私の感覚ではこれは多すぎる、と感じました。100万円あれば、いったい何人の腹を空かせた子供に飯を食わせてやれるのか、いったい何人の夜露を防いでやれるのか、と思えてなりませんでした。
最終的に、お布施を半分に減額し、減額した分で参列してくださった方々に充分に振舞わせていただきました。その方が何倍も得心が行きましたし、限られた資産はいま生きている人に使われた方が良いと考えています。
他方で、先人への敬意を忘れて良い、と言っているわけではありません。私たちが今あるのは先人たちが紡いできたすべての結果であることは当然のことです。むしろ、その歴史、過去にきちんと敬意をはらうために、「形式だけで気持ちの伴わない、義理先行型の葬儀・法要」が無くなっていくのは、とても自然なことだと思うのです。
放送でも古溪さんが述べているとおり、葬儀や法要は、節目節目で故人に思いを馳せることで自身の心身の安定を図るための仕組みとして機能していることはよく理解できます。
だからこそ、義理や世間体による受動的な参加ではない、そこに能動的に参画できる仕組みで三回忌を実施したいと考えたのです。私の場合、現時点でのその答えが「僧侶を呼ばない、内輪だけでの墓参りと食事会」だったというわけです。
そしてそういったミニマルな祭礼が一般化していくなかで、宗教家としての僧侶の存在感は逆説的に増していくと考えています。なぜなら、宗教の本質は「信仰と帰依」=「信じて縋ること」であって、人の生き死にには「信じて縋る」ことが不可分に存在するからです。
さらに言えば、いわゆる葬式仏教によって、仏教=死んだ後に関わるもの、というイメージがありますが、むしろ仏教は日々を懸命に生きる人々のすぐそばに普遍的にあるものなんだろうな、と感じています。なぜなら、繰り返しになりますが、宗教の本質は「信仰と帰依」であって、日々の生活はその濃淡や強弱はあれども「信じて縋る」ことの繰り返しだからです。人の生き死にと不可分であるということは、日々の生活とも不可分だと思うのです。つまり何かを信じて何かに縋らなければ、こんな不条理な人生なんてやり過ごせないでしょう、というわけです。
加えて、現在一般的とされている葬式の形態が、この国において普遍的に一般的であったかと言うと全くそんなことはないとも考えます。葬儀屋が僧侶を呼んでお経をあげてお布施を渡す、というやり方は、おそらくここ数十年程度の歴史しかないのではないでしょうか。世の中に普遍なものなど何もなく、万物は人間の意識も含め常に流動しています。我々にできることは、自分なりの最善手を考え、それをやり続けることのみです。だから、「先人への感謝と敬意」が通底していれば、葬儀法要の形態が変化することそのものに大した意味や意義はないと考えています。
長々と書いてしまいましたが、お伝えしたかったことは、2/20のアベプラでとても感銘を受けたこと、これから先の日本において古溪さんのような僧侶はとても必要とされると思うので、なんだか嬉しくなりました、ということでした。
様々な意味で先行きが不透明な時代ですが、私自身も、この国における仏教の歴史にも学びながら、温故知新で生きていこうと思っております。