科学嫌いが科学によって金縛りを克服してしまった悲しい話
もう少し大きな記事をいくつか鋭意製作中だが、何も書かないことを取り敢えず辞めたいな、と思い、日常に関する感想を書いて間を潰そうかな、と考えた。
昨日今日の話ではないのだが、タイトルの通り金縛りを克服してしまった悲劇について適当に、目標は三十分くらいのクオリティで、書こうと思う。
さて、注目してもらいたいのは金縛りを克服した点――ではなく、それが悲劇であったという点である。
克服当初は喜ばしい事態であったのが今では悲劇と解釈されている部分に着目して、なにか奥ゆかしい自己啓発観念でも抱いていただけると幸いだ。
まずは僕の金縛り体験について語ろう。
何を隠そう、僕が金縛りをそれと認識して経験したことがあるのはこの生涯においてたったの4回だけである。
初めて金縛りにあったのは高校3年の頃であった。それ以前には経験さえなかったので、金縛りなどというものについて興味関心など皆目存在せず、故に当時の僕にとって金縛りとは霊的現象そのものであった。
メディアで語られる金縛りの話はどこかうさん臭く、誇張気味で、だからこそ娯楽としてはそれなりに印象的である。
夜中に目が覚めると老父や老婆が布団の上に乗って笑っていた。意識だけがはっきりして、目は開かず、誰かがあたりを歩いている音がする。
あぁ、なんと怖い話か。怖すぎてうさん臭い。
そんなわけで、僕にとってそれを経験するまでは、金縛りとはそういう非日常的なものだったわけである。
そして、初体験――
それは、恐怖であった。まごうことなき恐怖、形容しがたい戦慄が我が身を襲った。冷汗三斗とはまさにこのこと、身の毛のよだつ思いを味わった。
僕の初めての金縛りは、AIによる人間侵略によるものである。
当時の自室、僕は布団を地面に敷いて仰向けに寝ていたのだが、その姿勢をとると視界の端にエアコンが映った。エアコンは稼働していないときにも赤い光を放ち続けており、幼いころなどはその光をぼうっと眺めながら視界が狭まっていくのを楽しんでいたりもしたのだが――その赤い光が、僕にめがけて一際強く輝いたのだ。
どこからともなく聞こえる笑い声、それは機械音声であった。あまりに無機質だからこそ一層恐怖心を搔き立てる。体は何故かピクリとも動かない。
刹那、悟る。やれシンギュラリティだのAIの反逆だのと騒がれているが、よもや遂にその時が来たのだ、と。
途端に、その光が意思を持ったもののように思えた。この光は僕を支配しようとしている。そう思うと、今度は機械の声で「支配する。支配する。支配する…」と、聞こえてくる。
悪寒の走るいとまもない。なんせ、身動き一つ取らせては貰えない。震えることさえ許されず、そのために心を揺るがす恐怖だけが延々と一身に注ぎ込まれ続けるのだ。
永遠に思えたその時間がいつしか終わり、どっと疲れた体と意識で、ぼんやり思う。これは夢であったのか、現であったのか。わからないまま、今度はまどろみに支配され、眠ってしまった。
翌朝、寝ぼけた頭の中にその記憶は鮮明に残っていた。なるほど、あれが金縛りなのか。どこか感動的な心地さえした。非日常を味わっていたことを理解し、惜しいことをした、もっと味わっておけばと後悔さえした。
そんな僕を哀れんだのだろう。数日後、再びAIの侵攻は何故か僕の部屋のエアコンを起点に再開した。
今度は、これがリベンジマッチであると意気込み臨んだ。さすれば僕はAIの思惑を打ち破り、人類の底力を見せつけてやれると確信した。
しかし、火事場の馬鹿力などあてにならない。為すすべもなく侵略され、僕に許されたのは与えられる恐怖を享受し、脳裏を焦がす思いをすることだけであった。
このままでは不味い。そう感じた。
AIに負けっぱなしなのも腹だたしかったし、何より、金縛りとは何であるのか。純粋に疑問に思い、これまたうさん臭いネットの金縛りに関する記事を読み漁った。
ネットの記事などどこまで信用できるのか。その境界線は正直わからないので、既存の知識として知っていたことや複数の記事に共通して書かれていることをある程度信用できるものだとして、自分なりに金縛りを解釈した。
人の睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠がある。レム睡眠の時には眠りが浅くノンレム睡眠の時は深い。夢を見るのは基本的にレム睡眠の時で云々とも書かれていたが、確かノンレム睡眠の時も人は夢を見ているという風な話も聞いたことがあるので詳細は分からない。
取り敢えず、レム睡眠は浅い、ノンレム睡眠は深い。漠然とそうイメージを持っている。そして、金縛りは基本的に、体は深い眠りについているのに脳だけ浅い眠りについている状態。こういうテイストの文言が多かったので、ひとまずこれを現段階での科学的知見なのだと判断した。
既に予定以上に時間がたっているので大雑把に書くが、僕は基本的に科学に対しては否定的だ。こういってしまうと語弊が生じてしまうからうだうだ語りたいところはあるのだが、簡潔に言うならこうなってしまう。
より正確には、現段階での科学に絶対の信用を置いてはいない。故に、今これが科学的に正しいのだと主張しそこから人間生活全般を規定したがることが嫌いである。
科学とは不完全な状態を指すものであるのだと僕は考えている。科学の強みとは寧ろ、不完全であるからこそ完全を目指そうというその人類の謙虚さに見いだされるのではないだろうか。
つまり何が言いたいかというと、「今は科学的に金縛りこう解釈されているのだな、成るほど」と自己満足に浸るために金縛りについて調べたのである。
色々調べて、金縛りには極端な恐怖が伴うこと、半分は夢であるため突拍子もない荒唐無稽な現象は起こらないことなども分かった。AIに支配される金縛りなど、恐らく50年前などは誰も味わわなかっただろう。そう思うと、前時代的な金縛りから現代的な金縛りへの変遷など随分興味深くもあったり…。
残念ながら、それ以来ぱたりと金縛りに遭うことはなくなってしまい、僕の関心もすっかりなくなってしまった。
そして、近頃。金縛りにあった。通算3度目の金縛りである。
夜中の2時くらいだろうか。今日は疲れた、そろそろ寝よう、と床に就いた。しばらくして、まどろみの中、がさりという音が耳に入った。
就寝前の思考回路というのはいかにもクリーンで、この音はどうして鳴ったのだろうか、などと考えはじめた。
恐らくゴミ箱の中で何かが動いて、音を立てたのだろう。そう思った。しかし頭の反対側で――実は、霊的な存在がすぐ傍にいて、などと考えてみた。
瞬間、何か、来る感覚がした。超常的な感覚を得た気分であった。およそ1年ぶりくらいに、金縛りが僕の身を襲ったのだ。
音のしたほうから、何かが寄ってくる気配。身の毛のよだつ圧倒的恐怖。化け物の笑い声が鼓膜を震わせる。
全身で恐怖を味わいながら、頭の反対側は未だにその明瞭さを保っていた。まるで明晰夢に気づいたときのように、僕はこれが金縛りなのだと金縛りのさなかに気が付いた。
依然恐怖心は全身を襲っていたが、僕は動かない体を必死に動かそうとした。頭が少し持ち上がる。しかし、起き上がることはできない。
もしも金縛りのメカニズムを知らぬまま、霊的な現象であると考えていたのなら。この体が動かない状態が恐怖を煽る材料となり、僕は泥沼にはまっていたことだろう。
しかし、一般的な金縛りについての知見を知っていたことによって、恐怖は霧散した。
本能は愕然としているのに理性は冷淡であるかのような。
そんな心持であった。
体は動かない。心は恐怖に彩られる。そんな生理現象を優しく解きほぐすように、懇切丁寧に理性が働きかける。
化け物の声は幻聴だと思い続けると、次第に何も聞こえなくなっていった。少しすると、どっとした疲労感と共に体の自由が返ってきた。
形はどうあれ、金縛りを打倒したのである。
その時は、あまり深く考えていなかった。金縛りは疲労によって起こりやすいらしいから、金縛りに遭う疲労感の中では程度の低い疲労だったのかもしれない、と考えた。
しかし、先日。再び化け物の笑い声が聞こえだした。もう聞き飽きた金縛りの鳴き声である。
この時も、金縛りが来る予感が先にあった。「あ、来るな」そういう気持ちで、寧ろ今度も打倒してやろうと息巻いた。
なんと、体が動かなくなったのはものの数秒だけであった。化け物の笑い声はあっというまに聞こえなくなって、もはや金縛りに遭ったのかどうかさえ怪しいほど簡単に打倒できてしまった。
あぁ、金縛りを克服したのだな。そう思った。
すると途端に、なんだか寂しさに駆られだした。
科学や理性の素晴らしいところ、それは進歩することである。それが進歩なのか、という哲学的問いは常に並走しないといけない、というのが僕の根底にある考えだ。
しかし、古今東西、理論の真の強みとはその説得性にあると思っている。
説得性、というと弁論術とか実験的科学とかを思い浮かべるかもしれない。他者を納得させることこそが説得性である?もちろんそれも、僕の述べる説得性の一部である。
しかし、この説得性の真価とは、己に対する働きのほうである。
説得性の高い理論は自分のなかで消化しやすく、自分の中で消化することに成功すると、理論は驚くほど自我を形成し始める。
ようは自己暗示である。催眠術によって嫌いな食べ物が食べれるようになったり、恐怖や痛みを感じなくなってなんにでも立ち向かえるようになった人を見たことはあるだろう。
催眠術の信憑性の話に関してだが、僕は科学的見地によって催眠術は存在していると考えている。ただし、メディアやフィクションによって印象付けられた催眠術は誇大されたものだろう。催眠術はそれほど万能ではない。あくまで自己暗示を強化するのが催眠術、というのが僕の考えである。
科学を信奉するというのも、ある視点からは真理へ近づく過程であるが、違う点からみれば、この自己暗示に似た側面を持つ。科学的理論によって自己を説得し、自我を強化する。そうして認識される世界は驚くほど理論に沿った世界で、肯定の連鎖が始まり暗示は強くなっていく。
別に、そういう科学を否定する意思は一切ない。むしろ、それが人間の正常な状態だとさえ思う。
事実、僕は金縛りをこの自己暗示によって克服したのだ。
科学とは斯くも強大なものであるのだと、それを疑うことに自己のアイデンティティを感じていた僕にとって、この経験は衝撃的で、いかにも悲劇なのであった。