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043. ちょっとした不便さがコミュニケーションを生む。
bonjour!🇫🇷 毎週金曜日更新のフランス滞在記をお届けします。
わたしがフランス生活で不思議に思った&困ったことは、バリアフリー環境が整っていないこと。ベビーカーにはとても厳しい環境でしたね。
5階建ての建物なのにエレベーターがついていなかったり、またエレベーターがあったとしても、狭くて方向転換できないこともよくある。アパルトマンの重厚な扉を開けながらベビーカーで外に出るのは一苦労で、やっと思いで外へ出たと思ったら歩道と車道の境目や、電車やバスの公共交通機関の乗り口にステップ(傾斜)がない。
自分がリハビリ関係職だからかわからないが、正直フランスへ来た当初は、「確かに街の景観は美しいが、子連れや高齢者に対してなんてやさしくない都市設計なんだ・・」と思っていた。そして、まだ子供がいなくて新婚旅行でフランスに来たときはこういうことに気がつかなかったなぁとも。
お店に行っても日本のアカチャ○ホンポに売っているようないわゆる子育て便利グッズはあまり置いてない。「便利」という点において、そして「ハード」的な面では、日本の子育て環境はもしかしたらピカイチなんじゃないかと思ったくらいだ。
しかし、そんなハード面では不便に思えるフランスだが、ソフト面では子育てするのにとてもよい環境だったと思う。困っていると必ず誰かが助けてくれるのだ。キリスト教圏というのもあるのでしょうが、困っている人の手助けをするのは当たり前という文化的風土を感じられた。
エレベーターがなくて困っている時、ベビーカーを持ってくれる人。
エレベーターやトラムから降りられなくて困っているとき、アパルトマンの重たいドアを開けられなくて困っているとき、ドアを押さえててくれたり一緒にベビーカーを出すのを手伝ってくれたりする人。
お店を出て、子どもが道路へ走り出しそうになった時にさっと手を繋いでくれた人。
日本と違い地震が少ないヨーロッパは古い建築物がそのまま使われていることが多いので、大幅な改修工事とかは難しいのだろう。そして、古きよきものを損ってまで改修することにあまり価値を感じない国民性なのかもしれない。バリアフリーの観点だとあちこちバリアだらけなんだけれど、しかし、バリアがあるなら助け合ったら良いんじゃないの?的なおおらかさがあり、そこから生まれるコミュニケーションがあるんだなぁとちょっとしたカルチャーショックを受けたのだった。
あぁそういえば、バリアフリーに対抗して恩師の先生がバリアアリー(リハビリのためにあえて障害物を作る)なるものを提供していたっけ。それってこういうことなのかな。なんでもかんでもバリア「フリー」にする必要なんてないのだ。
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日本の子育て環境は確かに便利ではあるけれど、それは裏を返すと「一人でなんでもやること」を要求される環境づくりにもなりかねないと思った。だから、日本に帰ってきて〝ママとパパの子育て応援グッズ〟なるキャッチコピーを子供用品売り場で目にした時は、今まで感じたことのないそこはかとない違和感が心の中をかすめていった。
ほらほら、こんなにも子育てを楽ちんにしてくれる便利なものがあるし、環境だって整えましたよ。だからね、自分でなんでもできますよ。(やってね)みたいなメッセージを感じてしまった。
応援、ね。応援されているんですよね、わたしたち。
でも、何かが足りない感じがしながらお店の中をウロウロとすると、その正体はちょっとした「不便さ」なんだなと思った。
ちょっとした不便さは助ける隙を生む。完璧な便利で埋め尽くそうとするのはまるで全ての毛穴を塞がれているがごとく、息がしづらい。それに万人にとっての便利なんてものはそもそも存在しないので、みんな便利さを享受しながらも何かしらの不便さを抱えていて、一見便利で整っている日本という国はそれが見えにくい環境なのかもしれない。そして、わたしが感じてきた日本の子育て環境における閉塞感の正体はこれか!とも思った。
じゃあ、日本もフランスみたいに街の景観に物理的な不便さを取り戻したら良いかと言われるとそれはちょっと違う気がする。だって、ベビーカーや車椅子で走行しやすい環境の方がいい。
問題は、物理的な便利さを享受している環境のなかで、物理的に補えない不便さをどうやったら人と共有して助け合っていけるかということなのだと思う。これって実はすごく恵まれていて、贅沢な問題なのだ。
以前、インドから日本へきて教鞭をとっている先生に「君たちは外ばっかり見過ぎなんだ。日本は本当になんでも揃ってる。君たちは自分たちが恵まれた環境にいるってことに気がついていない」と言われたことがあるけれど、わたし達はとても便利な環境にいるってことに気がついていない。
個人で考えられる物理的な「便利の飽和点」はとっくに過ぎていて、ひとたび便利完璧主義者になってしまうとそこになかなか気が付けない(あ、わたしのことです)。
ちょっとした不便さは助ける隙を生む。ものすごく大きな不便さには自分にできることなんてあるんだろうか、と思って手が出にくかったりするけれど、「あ、これならわたし力になれるかも」というちょっとした不便さには手を出しやすかったりする。そして、そのちょっとした「力になれるかも」から人との間にコミュニケーションが生まれ、クリエーションや物語が生まれていくのだと思う。
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