啓蟄-けいちつ- 身体の中で目に見えない力が動き出す
二十四節気通信。
2021年3月5日〜3月19日までは啓蟄です。
陽気地中にうごき、ちぢまる虫、穴をひらき出れば也
-暦便覧-
ゆるんだ地からは冬眠を終えた虫たちが這い出ててくる頃。
さて、ここでいう虫とは、普段私たちが「むし」と呼んでいる存在ではありません。虫とは私たちの本能であり、五感をまとう前の微細な感覚であり、生命力そのもの。啓蟄はそれが目覚める時です。
虫とは二面性を持った生命力そのもの
虫の知らせ、虫唾が走る、虫のいどころが悪い
日本語には虫に関する言葉がたくさんありますが、この虫という漢字は古代中国でもともとヘビ、特にマムシなどの〝毒ヘビ〟を意味していたことをご存知でしょうか。
普段私たちが想像する虫には「蟲」が使われ(人間を含む動物のすべて、という意)、両者は区別されていました。
ヘビは人間をそそのかす悪魔的な対象と見られる一方で、脱皮を繰り返すことから死と再生、永遠の生命力のシンボルでもありました。転じて、医学(左アスクレピオスの杖)や薬学(フュギエイアの杯)のシンボルとして現在でも使われています。
(画像出典:株式会社メディカルウィングスより)
虫(=ヘビ)とは、二面性を持った生命力そのものなのです。
身体の中に3匹の虫がいる!?道教の三尸説から見る虫との付き合い方
また道教には「三尸説」という人と虫との関係を説いたものがあります。
丹田というとおへその下を思い浮かべますが、道教では、人体に上・中・下、3つの丹田があると考えます。
そして、それぞれに、上尸・中尸・下尸という神様が宿り、総称して「三尸」と呼びました。
左から下尸・中尸・上尸。 (画像出典:Wikipedia)
上丹田:眉間の間にあり「神」を養う
→上尸が宿り、宝貨を好ませ、首から上の病気を引き起こす
中丹田:胸の真ん中にあり「気」を養う
→中尸が宿り、大食を好ませ、五臓を傷め、臓器の病気を引き起こす
下丹田:ヘソの下にあり「精」を養う
→下尸が宿り、淫欲を好ませ、精を悩ませる
三尸は宿主の人間が死ぬまで肉体の外には出られませんが、60日ごとに来る庚申の日だけは人間が寝ている間に抜け出すことができます。
向かう先は、北極星。
そこに住う天帝(閻魔大王)に宿主の悪事をチクり、その罪の深さにより宿主の寿命を縮めてもらうのだそうです(なんてヤツ)。
陰陽五行的に庚申の日は神経がたかぶり私利私欲に駆られやすいため、お金や精などの私欲をおさえ、三尸にチクられるようなことを作らないようにするのが良しとされています。
・・うむ。なんだか物騒ですね。
しかし、庚申の日は三尸が天に上るだけでなく、他の神々が天から下りて来て人間の行いを測るとも古くから信じられて来ました。
こう書くとちょっとスピリチュアルな感じですが、つまり庚申の日とは上と下の、顕在意識と潜在意識の境界線が揺らぎやすい日なのではないでしょうか。
そして、
・私欲が認識しやすい日だからこそ、いさめることでその奥にある繊細な感覚とのつながりや明瞭性を取り戻しやすい
・そこから得たインスピレーションを私欲のために浪費するのでなく全体へ還元する意識を持つ
そして、
庚申の日だけでなく日頃から3つ私欲と丹田を通じてうまくお付き合いしていくことで、繊細な感覚や明瞭性をつかみやすい身体になっていき、
それこそが、長寿の秘訣である
三尸説の説くのはこういうことではないでしょうか。
まだ医学技術が発達していない頃、五感としてはっきり感じられない、内側でうごめく生命力や微細な感覚みたいなものを、虫として感じる感性が昔の人にはあったのだと思います。
それは病気を引き起こし命を縮める力ではあるけれど、同時に欲を超えたところにある明瞭性へと人をつなぎ、命を与える力でもあったのでしょう。
この気持ちはなんだろう、を大切に
啓蟄にぴったり、虫の力をよく表している曲があります。
形にならずもどかしい、でもとても強い生命力にあふれた「何か」が広い空間を満たす感触。これを青春というのでしょう。
「春に」は、中学の合唱コンクールの課題曲で、私はこの曲の伴奏をしました。
私はクラスの真ん中で青春を謳歌!というタイプではなかったけれど、気が付いたらいつも伴奏的に後景を作り、場を動かすみたいなことを後々の人生でもずっとやっていたことに気がつきます。
当時は気が付かなかったけれど、しっかりと萌芽はあの時からあったのです。
この気持ちは何だろう
この気持ちは何だろう
ぼくの腹へ胸へそしてのどへ
声にならない叫びとなってこみ上げる
この気持ちは何だろう
この気持ちはなんだろう。
啓蟄はこの青春のもどかしさみたいな感覚をとても大事にしたい時期です。
次は春分。
いよいよ本格的に春が動き出します。
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