霜降-そうこう- よく眠るために土(身体)を整える時
二十四節気通信。
2020年10月23日〜11月6日までは霜降です。
いよいよ秋で最後の時節となりました。次はもう立冬・全てが眠りに入っていく冬が始まります。
収穫を終えた田んぼでは、寒さが極まり霜が降りる前までに、次の春に備えて土を耕しておきます。これを「秋耕」といいます。秋耕は、まるで一年頑張ってきた身体、一日頑張ってきた身体を労い、良い明日を迎えるためによき眠りをつくる行為であるように感じられます。
霜降とは
( 画像:季語集め◆春-夏-秋-冬-新年のHP「初霜/はつしも(冬の季語)」より )
江戸時代に発行された(※)暦便覧(こよみびんらん)には「霜降」とは以下のように記されています。
「つゆが陰気に結ばれて、霜となりて降るゆへ也」
霜降とは、時雨が降った後に、雨の露と陰気が結びつき、霜が降りて霜柱となることを意味しています。
(※) 暦便覧;江戸時代に太 玄斎 たい げんさい( 松平頼救 まつだいらよりすけ) が、校訂として天明7年(1787年) (今から233年前) に著した暦の解説書。
一つ前の時節「寒露」、秋分を挟んでもう一つ前の時節「白露」では〝露(つゆ)〟という曖昧模糊とした存在として漂っていたものが、寒さの極まりによっていよいよ結晶化され、形や質量を持った〝霜(しも)〟として地表に立ち現れてきます。
霜が降りると農作物が育ちにくくなり、田畑は閑散期・眠りのフェーズへ入ります。霜は収穫が無事終わったこと(=結晶化)のサインであるとともに、季節が眠りの時期へ入ったこと(=地表での成長が終わったこと)をわたしたちに告げてくれるのです。
春耕と秋耕|土づくりはサステナブルな創造性に満ちている
土を耕すと言われて想像するのは春の季節ですが、実は秋にも収穫を終えるとすぐに土を耕す習慣があることを最近知りました。前者を「春耕:しゅんこう」、これに対し後者を「秋耕:しゅうこう」または「秋起こし」と言います。
秋耕(秋起こし)を行う目的とは、地中と地表の土をかき混ぜることによりって田んぼの中に残った稲(=ワラ)を地中の微生物が分解しやすくして良質な土を作ることです。
ワラは残ると腐敗してヘドロが発生する原因にもなり、春先新しく植えた作物の根腐れや生育停滞を引き起こします。ワラをヘドロではなく畑の栄養として分解させる秋耕は、健康でサステナブルな田んぼを作るためにものすごく大切なプロセスなのです。
(画像:有限会社 百津屋商店HP:秋起こし」~来年の為の土作り~より)
秋耕は、収穫後できるだけ早くに行うことが望ましいとされます。それは、
・寒すぎない(気温15度程度)
・ワラに十分に水分が残っている
・土が乾燥している
という、ワラの分解が進みやすい最適条件を満たすのは、稲の収穫が終わった直後のほんの限られた期間だからです。
霜が降りるようになってからでは遅く、そこまで寒くなってしまうと微生物がうまく土の中で働けなくなってしまいます。収穫を終えたら、次の春を見越して霜が降りてくる前に土のコンディションを整えておくことが肝心なのです。
また、深く土を掘り起こさないことも大切なようです。
ワラを分解する微生物は空気を好む菌なので、あまり深く掘り起こしてしまうと土の中の酸素が不足して、これまた微生物がうまく活動できなくなってしまうのです。
「収穫できました。はいおしまい」ではなく、収穫の中に次の作付けのプロセスを含んでいる。終わりの中には常に始まりがあって、始まりの中には常に終わりがある。土づくりというこの繊細な行為はなんとサステナブルな創造性に満ちているのかと感心してしまいます。
背中合わせの「霜降=秋耕」と「穀雨=春耕」
ノートに書いたアイデアスケッチなのでちょっと見にくいのですが、青斜線の部分が春分から始まる一年の中の「霜降」の位置です。
ここから対角線を引いてみると・・
緑斜線部分の「穀雨」の時期にあたります。
面白いことに「穀雨」はちょうど「春耕」・作付けの前に土を耕して畑を起こしていく時期にぴったりあてはまります。畑の目覚めの準備である春耕と畑の眠りの準備である秋耕はお互いに背中合わせの関係であることがわかりますね。
ここで、「穀雨」のころ自分が書いたことを振り返ってみます。すると、やっぱり穀雨と霜降の時期はニュアンスが似ていることに気づきました。
双方に共通する「断捨離」というキーワードも見えてきました。
最近また断捨離したい!という衝動に駆られてデジタル・デトックスをしているのですが、これは目に見えない領域の断捨離であると捉えています。
半年前の穀雨の時はこんなことを書いていました。
「すっきり」を意識したいこの時期ですが、
外出制限が続き、こんなに空は青いのに発散することが難しいです。
だけど、おうちにいながらも「すっきり」は作れます。
私は今、着々と断捨離や整理に精を出しています。
日記を書いて感情や思考をすっきり。
家の中の物の断捨離で時間と空間をすっきり。
パソコンデータを整理して、目に見えない情報空間(わたしの場合、この領域が一番おデブさん笑)をすっきり。
コロナ渦で社会が大きく動く中で、なんだかもうとにかく「すっきり」したかった、あの頃。どこからかものすごいモチベーションが湧いてきて、人生最大級の盛大な断捨離祭りをしました。今冷静な頭で振り返ると、あれは「ニューノーマルを自分以外の誰かから押し付けられること」へ反発した私なりの表現だったんだなとわかります。
しかもその反発には怒りと暴力性をはらんでいて、自分で受け止めきれず溢れた場合、我が子に注がれることがわかっていた。だからなんとか昇華できる術をあの頃の私は求めていて、それが断捨離というコンテンツにカチッとハマったのだと思います。
さて、今回の秋の断捨離ですが、春と似ているようでモチベーションの方向性が少し違うなぁと感じています。
春耕的な断捨離と秋耕的な断捨離
春先に行った断捨離を、春耕的な断捨離と名付けましょう。
目に見える空間へフォーカスが当たっていて、とにかくスペースを作ることを考えていました。それはまるで新しい作物を育てるために空気の通る豊かな土壌をつくるかのようでした。そして、その動機は社会の変化による反発、という外側からの力によって生まれていました。
一方、これから行う秋耕的な断捨離はどのようなものになるでしょうか。
目に見えない空間(デジタル空間やデータなど)や行動、時間などにフォーカスが当たっていますが、それは春の断捨離によって目に見えるものがなくなり、管理する手間が減ったことで家族との人間関係や自分の行動パターンなどに注意が向くようになったからです。そして、動機は内側に感じます。
内側から染み出してくる源泉みたいなものに従って、静かに穏やかに粛々と、取り組んでいるところが春耕的な断捨離とは対照的で面白いです。
霜降の時期は入眠環境を見直してみよう
今度は一年を一日として考えてみると、霜降はこの緑矢印⇦で示したあたりの位置感覚です。
春分は一日の活動を始める時間。
夏至は正午。
秋分は一日の活動を終える時間。
そして、楽しい夕ご飯とか家族との団欒などがあって、立冬から立春まではぐっすり夢の中。その真ん中にある冬至は太陽から一番遠い深い夢の中。
そして、立春から眠りから徐々に醒めて来る。
このように考えてみると、霜降(緑矢印)は眠りにつくまでの時間です。
なので、霜降の時期は秋耕的なフレーバーを取り入れながら、入眠環境を見直すのに最適なタイミングであると思いました。
一日の収穫(=今日一日あったこと)を振り返り、十分に味わう。
次の春(=明日の朝)良い状態で迎えるために土(=身体)を整え、眠りにつくような環境を作るのです。
睡眠については興味がつきなくあれこれ調べてついつい睡眠不足になってしまうのですが(本末転倒 笑)、私は「子どもの眠りに寄り添うように自分に寄り添ってあげる」ことを実践してみています。
子どもが眠そうな時は、照明を抑えてみたり、静かにしてみたり、覚醒刺激になるものを遠ざけてみたり。眠れない時はお胸をトントンしてみたり、風邪をひかないように着る物を調節したり、彼女が眠りにつくという行為そのものをごくごく自然に尊重している気がします。
こんな風に自分の眠りを尊重してあげているだろうか。
そのまなざしや慈しみを、そのまま自分にも注いであげたらいいのではないか、と思ったのです。
私がまずやってみたのは「スマホを寝室へ持っていかない」こと。
ごくごくシンプルで誰でも思いつくような方法ですが、静かに観察する目を持ちながら継続して取り組んでみると、ものすごく大きな効果を実感できます。
最近は夜のオフライン時間をちょっとずつ長くしています。本を読みながらトロトロと眠くなる、という少し前では考えられない、ちょっとした幸せな時間が生まれつつあります。この辺りはまた改めて上記マガジンのno.3の記事に書いてみますね。
みなさんは夜寝る前、どんな時間をお過ごしでしょうか。
寒さに誘われ木々の母は日毎に色鮮やかになり、その残像は秋の夜長にも彩を添えてくれます。みなさまにおかれましても、深まる秋を、そして豊かな夜を、豊かにお過ごしくださいませ🍁
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