「自分語り」って?
あなたにとって、「重大なこと」って何かな?
例えば、「自分自身のこと」とか。
自分なんてどうでもいいって人もいるだろうけど、大体の人は自分のことは結構重大だったりするはず。
そして、前回お話ししたように、
「重大なこと」は語れない
でしょ?
自分のことって、マジ語れる?
だなぁ⋯⋯、身の上話くらいなら、まぁ語れるかも。
拙者はね、二十代の頃、小説書き+翻訳家になろうかなぁと思ってて、主に英米の小説を一人でコツコツ訳してたんだわ。
ドリス・レッシングとかね、当時はまだ日本ではあまりメジャーじゃなかった作家の短編集とか未訳の中編とかね、訳しながら涙を流したこともあるw 内容に感激したからでもあるけど、「ああ、こんな救いのない小説、日本じゃ絶対売れないよな」と思ったから。w
パンデミックの頃、長い年月を経て、また翻訳してみる気になって、サミュエル・バトラーの『エレフォン』と『エレフォン再訪』(日本初訳)を訳出ししてKindle出版してみたけど、いまだに売れませんなぁ。しみじみw
2年近くかけて丁寧に訳したけど、収益ほぼゼロ。シクシク。
⋯⋯なんて愚痴を言いたかったわけじゃなく、実は「身の上話」というキーワードから、大昔に密かに訳していた "The Catcher in the Rye" のことを思い出したのだった。
すでにいくつか和訳は出てたけど、どれも出だしからして奇妙な文章だったので、ムカついてある冬のひと月ほどで一気に訳したのを覚えてる。
当時の翻訳ファイルは実家に置いてある古いワープロ専用機(当時プリンタと合わせて70万円強)内のはもう開けないだろうから、つい今し方の最新訳の景丸Jr.バージョンでは以下のようになります。
原文は後で掲げますが、当時はあまりにお下品な表現のオンパレードってことで、米国本国にて発禁処分になったことさえあるとかないとか。
なので、あえて今風に訳し直してみましたが、これでも不足かも。
で、なんでわざわざこの部分を引用したかというと、このお気楽能天気風のパラグラフでは実に哲学的なことが語られていると拙者は思うからである。
つまり、サリンジャーが「語ろうとしている」のは、ある象徴的な出来事、つまりエピソードであって、主人公ホールデン・コールフィールドの「自分語り」ではないのだ。
ちなみに、この名前にも意味があって、ホールデンHolden は「hold on」と読むことができ、コールフィールドCaulfiels は「コールcaul」と「フィールドfield」に分けることができる。
物語の最後の方で明かされるように、大人のインチキ世界からしたら、ただの落ちこぼれのガキンチョでしかない彼の切実な願いは、本物の無邪気な子供たちが遊ぶ野原(フィールド)を包み込む保護網(caul : 大きな網とか、腹膜とか、出産時に胎児の頭部を覆って守る膜なども云う)を「hold on しっかり保持して」いたいということだ。
ちなみに、この小説の通奏低音として流れているのは、日本では「夕空晴れて」とか、「誰かさと誰かさんが麦畑」の訳詩で知られるスコットランド民謡。(歌詞はスコットランドの詩人ロバート・バーンズの詩。)
それもあって、拙訳のタイトルを『ライ麦畑の子守唄』としました。
なぜなら、そもそも the catcherそのものが作品のテーマなんじゃなくて、この民謡のどこか寂しげで安らかなメロディーを心の中で口ずさみつつ、野原で遊んでいる子供たちが崖から転げ落ちないよう見守っていると云う、そのthe cathcerのイメージの方が主だからね。
なお、主人公はニューヨークのブロードウェイで通りすがりの男の子が口ずさんでいたこの歌の
If a body meet a body comin' through the rye…
のmeetをcatchと聞き違えをしていたという設定になってます。
(ご存知のように、サリンジャーはユダヤ系+アイリッシュ系ですが。)
しかも、これは単なるエンタメのための作り話ではなく、サリンジャー自身の切実な内面生活の一面を象徴する(フィクショナルな)エピソード語りだった。
実際彼は、あるインタビューで、この小説が半自伝的であることを認めています。
しかもしかも、この小説が書かれたのは、ノルマンジー上陸作戦時の戦場でのことだった。。。マジ
と云うことで、次回は彼の「実話」の方を少しお話ししましょう。
で、先ほどの訳文の原文を引用しておきますね。
*ちなみに、この最初のyouは、いわゆるgeneric you で、特に「君」とか「あなた」と訳すような文脈ではないんじゃないかと。。。
To be continued