〜第5章〜 アルバム全曲解説 (22)D面-5 In the Rapids
いよいよ、ストーリー完結の曲です。必死の思いで助け出した兄の顔を見たら、それは自分の顔だったという最後の結末が歌われる曲です。
【テキスト】【歌詞】とその内容
曲は、ドラマチックな内容が歌われる割に、全体として穏やかなムードで統一されています。特に前半は、まだ急流の中で兄ジョンを助けようと奮闘しているレエルのシーンです。
歌詞も冒頭からかなりゆったり歌われているのですが、描写は急流にもまれて兄を助けようとするシーンなのです。
そして、歌は Verse 2 から徐々にテンションを上げていき、【歌詞】の最後に叫びのようなピーターの声でこう歌われるわけです。
こうして【歌詞】は終わるわけですが、【テキスト】にはこの続きが存在します。
こうして、兄を助けたはずなのに、助けたのは自分自身だったというストーリーが完結するわけです。結局兄ジョンとは、レエルのもう1つの人格のことだったわけで、異なる2つの人格が統合し、「紫のもや(purple haze)(*1)」に包まれて消えていくというラストシーンなのです。
そして【テキスト】の最後、結びとなる文章がこれです。
こうしてストーリーは終わるわけです。結局最後レエルはこの後どうなるのかについては、何も触れられていないわけですが、この雰囲気から考えて、作者は、ハッピーエンドを意図していることは間違いないと思います。つまり、「我らがヒーロー」レエルの魂は、長い旅の末に救われたということなのです。そしてこれは、ステージ上と普段の人格の落差で悩んでいたピーター・ガブリエルが、自己を投影した希望的な結末だったのかもしれませんね。
そして最後の、 It's over to you. です。この最後の1文は、上では「次はあなたの番かもしれない」とちょっと意訳しましたが、もともとは、「あなたの身の上にも同じ事が起きる」というような意味でしょう。つまり、レエルの冒険のようなことは、誰にでも起きうるのだというような表現で締めくくられているわけです。
結局このストーリーは何だったのか?
このストーリーは、社会のアウトロー的な人物だったレエルが、様々な精神の旅を経て救われるという一種の神話、Hero's Journey だったわけです。基本的にはハッピーエンドのストーリーなわけです。
そして、実際に主人公、「我らがヒーロー」レエルは、死んだのか、その後はどうなるのか等については、作者は敢えてその部分を記述せずに残しているのだと思います。映画や小説でも、一応の結論までは記述して、その後はそれぞれの人の考えに委ねる的な作品はよくありますよね。この物語がまさにそれだと思います。そして、ここまでわたしの記事を読んできていただいた皆様は、もうすでに皆さん個々人の感想をお持ちではないかと思います。それで良いのです(^^)
以前、 Fly on a Windshield の場面で、わたしは、「この場面ではまだレエルの肉体は死んでいないのではないか」と書きました。ライブ前半のピーターの【MC】などでも、その辺を敢えて曖昧にするような表現がされていたはずです。でも、この解釈はやはりわたし個人のもので、それ以外の解釈もいくらでも許容されるわけです。
つまり、レエルの死は、Fly on a Windshield で雲の壁に飲み込まれた瞬間だったとしても、その直後の事だったと解釈しても、そのしばらく後だったとしても、それどころか、レエルは最後に死なずに、ニューヨークで再び目覚めるのだという解釈ですら否定されていないと思うのです。そして、死後転生するのか、神の元に召されるのか等などについても、物語を味わったリスナーが、それぞれ感じ、考えれば良いのです。それが、The Lamb Lies Down on Broadway なのです。
ただ、一方でピーター・ガブリエルはこんなこともインタビューで言っているのです。
また作者本人がこういうことを言うのでややこしくなるのですが、やはり当時のピーターは、ある特定の思想、つまりチベット密教の影響を相当受けてこのストーリーを書いたのだと思わせる発言です。( "宇宙のジュース "の状態を経て、いずれ転生するのだから「死んでないのだ」と言外に言っているようにわたしは感じます)もしかすると、リリース直後の時点では、物語に深みを与えるために敢えてこういうことを言ったのかもしれませんし、personally(個人的な)と敢えてつけ加えられているのは、作者としてではなく、一読者として、許容された様々な結論のひとつを敢えて披露したものではないかとも思うのです。ですから、肉体の死を生命の死と捉えてる人には、最後レエルは死んだのだという解釈でも何ら問題ないのだと思うのです。
【音楽解説】
マイク・ラザフォードはこのアルバムではMicro-Fretsの6弦ベースとダブルネックとなっていた12弦ギターを多用していましたが、この曲では敢えてリッケンバッカーのセミアコースティックの12弦ギターを使用しています。その12弦ギターのゆったりとしたストロークでスタートする曲です。ピーター・ガブリエルの歌も、歌詞の内容に反して抑え気味に始まり、[1:30〜]のVerse2で、ジョンを助け上げるシーンから徐々にテンションを上げはじめ、最後の「助けた兄は自分だった」のパートを最高潮にするというスタイルです。そして最後はトニー・バンクスのArp ProSoloistで出したポルタメント音で、本当のアルバムラスト曲 it につながるわけです。
かつての Supper's Ready のエンディングのような劇的な盛り上がりを欠いているのは確かで、これまでのジェネシスの方法論からすれば、これだけ長大なストーリーの最後に置く曲としては、ふさわしくないとすら思える楽曲です。
これはまたわたし個人の邪推の類いですが、ピーター・ガブリエルは、ストーリーのエンディングとなるこの曲では、これまでのようなジェネシス的方法論による盛り上がりを敢えて避けて、ストーリーの語り手としてボーカルの声のテンションだけで劇的な幕切れを作るというような意図があったのかもと勘ぐれるほど、これまでとは異なる楽曲なのですね。実際は、最後にもう1曲あるためにこうなったのかなとも思うのですが、結局この構成が、後にトニー・バンクスなどが繰り返し「強い瞬間が無かった」というアルバムD面の特徴ともなってしまったというわけです。
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【注釈】
*1:1967年リリースのジミ・ヘンドリックスの曲、Purple Haze(邦題:紫のけむり)が引用されています。Hazeとは、楽曲の邦題では「けむり」と訳されていますが、元の英語の意味は、人工的な煙ではなく、自然現象として発生する「かすみ」「もや」のようなもののことを指す言葉です。
*2:以前も紹介しましたが、比較的最近になってヒプノシスの会社の倉庫から発見されたピーター・ガブリエル手書きのストーリー資料 "Early Genesisyphian toil"(Headry Grangeでの打ち合わせの際にヒプノシスに手渡されたデザイン依頼資料の一部)には、もう一つのエンディングが書かれていたのです。その内容は下記のようなものでした。
結局いずれのエンディングでも、束縛のある状態から解放され、何か超越的な「最終状態」に昇華するイメージであることは変わらないわけで、ストーリー構想の最初期の段階から、この「ハッピーエンド」の結末はきちんと想定されていたということだと思います。ちなみにこの倉庫に眠っていた資料には、こちらのエンディングの記述の上に×印が書きこまれていたそうで、恐らくHeadly Grangeで手渡した際にはまだどちらにするか決めかねていた状態だったのに、後にこちらはボツという情報をピーターがヒプノシス側に伝えたのだと思われます。