〜第3章〜 The Lambの制作 (3)アイランドスタジオでの最終作業とアルバムの完成
8月19日にGlaspantでのバックトラックのレコーディングを終えたメンバーは、各自が自宅に戻り、次にロンドンにある、アイランドスタジオでの作業にうつります。
仕上がらない歌詞
通常レコーディングが全て終わっていれば、最後の作業は、ステレオへのミックスダウンだけとなるわけですが、この時点でまだボーカルトラックがほとんど録音されておらず、様々な作業が同時進行で行われるという、バタバタなフィニッシュ作業となるわけです(*1)。
ピーターは、相変わらず歌詞が仕上がらず、「(Glaspantの後)1か月経っても僕らは歌詞を待ってる状態だった」とフィル・コリンズが証言しているわけで、9月の中旬になっても、まだ録音できていないボーカルトラックがあったようなのです。
さらに、どうしても歌詞が間に合わなくなったピーターは、1曲だけマイクとトニーに歌詞を書いてほしいと依頼するのですね(*2)。
9月に入ってすぐに10月29日から11月12日までのイギリス国内ツアーがアナウンスされます。さらに9月中旬にはチケットも発売開始され、わずか4時間で8000枚のチケットがソールドアウトしているのです。それなのに、ピーター・ガブリエルはまだ歌詞に悩み続け、あげくに曲が足りないとなって、急遽2曲が追加で制作されて録音されるなど、まだこんなことをやっていたわけです。
まあ、こんな状況で、The Carpet Crawlers のような名曲が生まれるのが、彼らの神がかったところなわけですが…
さらに、メンバーは、各パートのオーヴァーダビングなどを行うわけですが、肝心のピーター・ガブリエルは、義父母の家にこもって、歌詞とボーカルメロディーの作成を行い、たまにアイランドスタジオに行ってはボーカルトラックを録音するというような作業だったのでした。そしてこのような状態が9月の末まで続くわけです。
ブライアン・イーノの参加
こういうドタバタなスタジオ作業が行われていたのですが、このとき、たまたまアイランドスタジオ2Fで自身のソロアルバムの作業をしていたのがブライアン・イーノでした。
ここで、ピーター・ガブリエルが、きれいな2Fスタジオを使っていたブライアン・イーノにアルバムへの参加を打診するわけです。このオファーはピーターの独断だったようです。自分のせいで遅れに遅れている状況なのに、やはりこの図太さというか、何というか…。これぞピーター・ガブリエルの真骨頂なのでしょう(笑)。さらに彼は、勝手にフィル・コリンズを彼のアルバムに参加させることをバーターとしてオファーしていたわけです。こうしてイーノが参加したのは、In The Cage のバッキングギターと、Grand Parade Of Lifeless Packaging のボーカルのエフェクトだけだったと言われています。そして、アルバムに、Enossfication とクレジットされることになるわけです。(このアルバムクレジットもほとんどピーター・ガブリエル一人が関わって、他のメンバーが知らないうちに出来上がったのだと思われます)
ところが、トニー・バンクスはこう言います。
「フィルの後押し」とスティーブは言ってますが、イーノを参加させたのはピーターの独断であり、フィルはそのバーターでイーノの作品に参加したと言うだけの話です。それに、こうもイーノを絶賛するのは、The Lambのサウンドを「トニー・バンクスのソロアルバム」的な発言までしたことがあるスティーブですから、トニーに対する当てこすりではないかと勘ぐってしまうのですが…(笑) フィルはこのときイーノとも意気投合して、その後のイーノのアルバムにも参加したほどで、そのことについては「売春を斡旋されたけど気にしてないよ」という酷いジョークで笑い飛ばしてるのですが、トニーは「自分のキーボードパートの一部をイーノが弾いたのではないか」という疑念をリスナーに与えたことがどうしても許せなかったようで、今に至るまで一貫してこういう立場を貫いています。
この状況で、彼らは、このダブルアルバムを1枚ずつ時間差で発売するという苦肉の策を考えるのですが、そんなことをレコード会社やマネージメントが納得するわけもなく、当初予定通りダブルアルバムを10月のツアーに間に合わせるというプレッシャーの中で作業を行うことになり、9月末頃からは、バンドメンバーは2組に分かれて昼夜2交代でミックス作業を行う羽目になってしまったわけです。
そんなとき、ある事故が起こります。
スティーブ・ハケットの怪我と入院
これは10月6日の夜の出来事でした。自分のオーバーダブパートの作業が全て終わったスティーブは、息抜きにセンセーショナル・アレックス・ハーヴェイ・バンドのギグに行き、その後の打ち上げパーティに招待されていたのでした。この頃アイランドスタジオでは、夜のジェネシス(ピーター&フィル)と、昼のジェネシス(トニー&マイク)のチームに分かれて、昼夜2交代でのミックス作業がまだ続いていたはずなのですが、何故かスティーブだけはそこに加わっていないようなのです。この辺もスティーブのバンド内の立ち位置が影響しているのでしょうか…。
実はこのとき、アルバムの最終曲である、it のボーカルパートの件で揉めた後なのですね。もともと皆がインストゥルメンタルだと思っていた it に、想定外の歌詞が載せられて、ピーターが歌いまくってることにバンドメンバーが気づいて、かなりピーターと揉めているのです。このとき一番激高したのがスティーブだったと言われており、温厚なスティーブ(本当はバンドメンバーからは「暗い」と言われているのですが…w)が珍しくピーターと激しく口論したのだそうです。そういう事があった後、スティーブは左手に大きな怪我をしてしまうのです。
そしてスティーブはこの怪我で5日間入院(*3)することになるわけです。これは、Headly Grangeから続いたバンド内の極度の緊張状態を経験したスティーブ・ハケットが、アルコールの作用で発作的に起こしてしまった事故だったと言われています。ただ、ラザフォードはこんなことを言ってます。
このときマイクがどういう感想をもったのかまではよく分からないのですが、「本当はストレスだけじゃ無いんだろ?」という捉え方をしていたメンバーがいたというのも事実なのです。
ただ、この事故は、10月29日からブッキングされていたイギリスツアーを延期する恰好の口実となり、彼らは時間稼ぎに成功するわけです。わずか1か月ほどの期間ではありますが、ツアーのリハーサルをする時間もこれによって確保できたわけで、結果としてこれは彼らも助かったはずです。もし、このとき予定通りツアーがスタートしていたら、一体どういう事になっていたのかは、想像するしかありませんが、いろいろな点でかなり酷いことになっていたのではないかと思います。
そしてアルバムの完成
Glaspantを撤収したあと、「1か月たってもまだ歌詞をまっていた」というフィル・コリンズの記憶が正しいのなら、恐らく歌詞とストーリーがフィクスしたのは、9月下旬頃だったのでしょう。ストーリー、歌詞の決定稿をヒプノシスに渡して、そこからジャケットのデザイン作業が始まるわけです。8月にGlaspantでデザイン打ち合わせが行われていることを考えれば、9月末の時点でジャケットの写真素材の撮影や合成作業はほぼ終わっていたと思って良いと思います(*4)。いずれにしても当時写真の合成というのは、一度フィルムで撮影したものをプリントして、そのプリントを切り貼りしてレタッチした後に再度カメラで撮影して作るものでしたので、写真の合成ひとつとっても、今より相当に時間がかかる職人芸だったわけです。そしてこのことが、ジャケットのビジュアルと、実際の歌詞、ストーリーがあまりシンクロしていないという結果をもたらしたわけで、そこにまた様々な解釈が生まれる要因となるわけです。これはわたしは、制作の時間的制約に基づく齟齬だと思ってまして、このビジュアルの意図を真剣に議論してもあまり意味がないものではないかと考えています。ピーター・ガブリエルはそこまでジャケットのアートワークに口出ししてなかったようですし、それができるような余裕もなかったはずなのです。
(ジャケットの写真についての解釈はまた後ほど書くと思います)
でも、テキストが最終フィクスしないと、アルバム内側のデザインができないわけです。現代のように、パソコンのレイアウトソフトにテキストを流し込めば、改行などが全部自動で処理されて、簡単にレイアウトできるような時代ではないわけです。1974年頃、商業印刷の世界では活版印刷から写植を使ったオフセット印刷への移行期でしたが、The Lambの中ジャケットの写真と文字のデザインは、新しいオフセット印刷が使われているように思います。それにしても、デザイナーは文章の文字数を数えて、オペレーターに原稿の改行位置、文字間、行間の指示などをして写植の文字版下を作り、それをレイアウトしていく作業が必須の時代です。そのような時代的背景を考えると、9月末に原稿がフィクスしたとしても、ヒプノシスのデザイン作業は実質1か月ほども猶予が無かったはずですし、デザインが終わった後に、製版、校正、印刷、スリーブの組み立て、プレスされたレコードの封入、輸送などの工程があることを考えると、どう考えてもこれでは当初の10月29日からのイギリスツアーにアルバムのリリースが間に合うはずが無い状況だったと思うのです。
そういう観点からも、このときのスティーブ・ハケットの怪我は、それがどのような理由であったにせよ、結果的にはバンドにとっては救いとなったのは間違いなかったのでした。そして、10月中旬と思われます。これも最終日がどの資料にも明示されていないので推測でしかないのですが(*5)、アイランドスタジオでのマラソンミックスダウンがついに終了して、マスターテープがカッティング工程に送られたわけです。ちなみにジェネシスのメンバーは2チームに分かれて作業に当たったわけですが、プロデューサーとエンジニアは24時間体制で張り付く必要に迫られたわけで、一番大変だったのはこのスタッフだったと思われます。このとき彼らは初めて最新の24トラックの機材を使用(Selling Englandまでは16トラックだった)しており、これがさらにスタッフの作業量を増やした状態で、この状況だったわけで、スタッフの苦労が偲ばれます。ちなみに、プロデューサーのジョン・バーンズは、全ての作業が終了した翌日に、ヒースロー空港から休暇に旅立ったそうですが、そのとき空港で「立ってるのがやっとの状況だった」と回想しています。
また、スティーブの怪我によってイギリスツアーが延期され、メンバーにはわずかなオフがもたらされたわけですが、このとき、マイク・ラザフォードは、ジェネシスのオリジナルメンバーである、アンソニー・フィリップスを誘って、ソロアルバムの制作を開始するのです。このときの楽曲は結局その後アンソニー・フィリップスの1stソロアルバム The Geese & The Ghost に収録されることになり、マイクのソロアルバムとはならないのですが、このわずかな期間に、ソロアルバムを作りはじめること自体が、やはり彼らが経験したThe Lamb 制作の5か月間で、バンドのメンバーたちの考え方がすっかり変わってしまったということのひとつの表れなのだと思います。ただ、とにもかくにも、彼らはこうして1974年10月中旬に彼らは自らのキャリアで初となるダブルアルバムを完成させたわけです。
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【注釈】
*1:Glaspantでバッキングトラックのレコーディングが終わったと書きましたが、冒頭の The Lamb Lies Down On Broadway のイントロなどの生ピアノのパートはすべて Glaspant で一旦 REM のエレピで録音された後に、アイランドスタジオで改めて録音されて差し替えられています。このときトニー・バンクスはスタインウェイのグランドピアノを購入してアイランドスタジオに持ち込んでおり、このピアノは今でもトニーの自宅にあるそうです。またトニーは、アイランドスタジオの備品だったELKA Rhapsodyという当時最先端のポリフォニックのストリングマシンを使ってメロトロンサウンドを補強しているそうです。このアルバムの劇的なストリングサウンドは、実はメロトロンだけではなく、こういう細かい作業によって生まれているわけだったのです。結局このような後処理的作業はすべてこの最後のアイランドスタジオで行われています。
*2:この一節に続いて、マイク・ラザフォードはこう書いています。
実際には、アルバムのクレジットにAll words by Peter Gabriel とは書かれておらず、LPではストーリーの最後に Copyright Peter Gabriel 1974 とだけ書かれています。これはストーリー部分の©であり、歌詞についてはとくに記述がないという解釈もあるとは思うのですが、恐らくラザフォードはこの件でピーターと口論くらいにはなっていたのだと思います。そして、それがいまだに修正されていないことをかなり不満に思ってるのは明らかですね。それにこのクレジットはロイヤリティの配分にも関係があるはずで、マイクとトニーは恐らく金銭的な不利益を被ってる可能性すらあるはずなのです。それでも今のメンバー同士の関係が維持されているというのも、ジェネシスが他のバンドと異なる特別なバンドだというひとつの証左だと思います。
*3:一歩間違えればギタリスト生命を失いかねない大怪我を負ったスティーブ・ハケットですが、入院したこの5日間のうちに、バンドを脱退してソロアルバムを制作する決意をするのです。ところが、これを説得して翻意させたのは見舞いにやって来た父親でした。こうして、後のスティーブのジェネシス脱退についてもこのときタイマーがスタートしたというのは間違いないのです。また、スティーブがあまりミックス作業に立ち会っていなかったことがその原因かどうかは不明ですが、当初のミックスではギターのパートがかなり奥に置かれており、スティーブ本人も仕上がりには相当不満だったようです。2008年にSACD化された5.1チャンネルのリミックスにはスティーブも納得していたそうです。
*4:これは余談になりますが、ステージで使われた1400枚を超えるスライドの制作については、ほとんど資料がありません。このスライドはジェフリー・ショウ(Jeffrey Shaw)とテオ・ボッシュアイバー(Theo Botschuijver)という人物により制作されたようですが、ジェフリーは「ヒプノシスとは接触したことが無い」とコメントしているそうで、こちらはこちらで全く独自に制作されていたようです。
今も残る上記のホームページを見ても、「これがいつ頃から制作されたのかは不明です。ただ、「テーマを自由に解釈した」と書いてあるように、この作業は最終歌詞がフィクスしないとできないものでもないはずで、こちらについては恐らくもっと早くから制作が開始されており、10月末のツアー開始には間に合うように動いていた可能性はあると思います。
*5:実は、スタジオ作業が終了したのは、「アルバムリリースの11月22日の4週間前だった」とする資料もありました。だとするとフィニッシュしたのは10月25日となるわけです(でも何故か資料にはその日付が明示されていない…)。本当にそこまで引っ張ることが出来たのか、それでわずか4週間でカッティングからプレスまで終了できたのか、また、プロデューサーやメンバーが昼夜2交代をそこまで続けられたのか等など疑問点が多いのです。そこであえてここでは「不明」としました。ただ、実際イギリスでは初版LPのプレス不良が起き、かなりの数のアルバムが交換となったという話もあるので、あながち否定もできないのですが…。