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〜第8章〜 The Lambツアーの全貌 (2)1st American Leg (1974年11月20日〜12月18日)

The Lambツアーは、10月に予定されていたイギリスツアーがキャンセルされたために、北米ツアーからスタートします。このときアメリカでは、観客数2000〜6000のホールが中心で、カナダは10000を超えるキャパのスポーツアリーナで行われました。2公演行われた都市は、すでに彼らが一度ライブで訪れたことがある都市で、ファンベースがあると判断した場所だったそうです。



ショーのスタートと、ピーター・ガブリエルの脱退表明

11月20日、21日と、2夜連続のショーをシカゴのAuditorium Theatreで行ってスタートした The Lamb Lies Down on Broadway ツアー。その後、22の北米都市で、全25回のショーを行うのです。29日間に、あの広いアメリカでの移動を伴う25回のショーはまさに過酷なツアーなのですが、彼らのツアーはそれ以前からこんな感じではあったのです。このときバンドメンバーは、2台のおんぼろリムジンに分乗して移動したとマイクが証言しています。これは、1台のツアーバスにすると、トニー以外誰も時間を守らないので喧嘩になるのと、バスより経費がかからないためだそうですが、雇ったバッファロー出身の2人の運転手がどちらもバッファロー以外のアメリカの道を全然知らずにだいぶ珍道中となったのだそうです。

初演となったシカゴの Auditorium Theatre は、4000人収容の歴史的なホールで、ここでの2回のコンサートは、SoldOut までは行かなかったようですが、満足できる集客だったそうです。怪我をした左手の調子がまだ完全ではなかったスティーブ・ハケットは、本人が「拷問のようだった」と語る理学療法をシカゴで受けており、その後各地でリハビリ治療を受けながらツアーを続けたそうです。ちなみにハケットは初日の前日、プレッツェルを噛んだら歯が欠けてしまい、急遽歯の治療も受けることになって、散々なツアースタートとなったのでした。

この間で、記録しておかねばならないのは、11月25日のオハイオ州クリーブランドでのショーでした。ツアーが始まって、わずか5回目のショーが終わった直後、ピーター・ガブリエルはマネージャーのトニー・スミスにバンドからの脱退を告げるのです。驚いたスミスは、ツアーを終えてから脱退するようにピーターを説得し、ピーターもこれを受け入れるのです。そして、その後に、メンバー全員のミーティングが行われ、ツアー終了後のピーター・ガブリエル脱退が正式にメンバー間で共有され、さらに残りのメンバーの次の計画が定まるまでガブリエル脱退は伏せることが約束されることになったわけです。(*1)


マイク・ラザフォードの怪我

そしてピーターの告白から数日後のピッツバーグのホテルではこんなことが起きるのです。

Our tour drinks for The Lamb were Southern Comfort and Blue Nun wine. At every hotel we stayed in, a bath would be filled with ice, the bottles put in, and then the lot steadily consumed with predictable consequences. The night I ended up drunk and blindfolded with no trousers on at 2 a.m. in Pittsburgh was one example, although I don’t remember what the blindfold was for. Anyway, I was still wearing it when a girl tried to shut the sliding bathroom door in my hotel room while my finger was in the way. She just couldn’t understand it: why wouldn't it go? What was making it stick? Clearly the only thing for it was to slam it very hard. Crack.
The Lamb ツアーの飲み物は、サザンカンフォート(アメリカ製のリキュール)とブルーナンワインだった。どのホテルでも、バスタブを氷でいっぱいにして、ボトルを入れ、そして予想通りの結果で着実に消費されていったよ。ピッツバーグで夜中の2時に、酔っぱらって目隠しされ、ズボンをはいていなかったのはその結果なんだ。とにかく、 僕がまだ目隠しをされていたとき、ホテルの部屋で女の子がバスルームの引き戸を閉めようとして、僕の指が邪魔になったんだよ。彼女はどうしても理解できなかったんだ:なぜドアが動かないのか? 何が邪魔してるのか? そして明らかな解決策は、それを力任せに叩きつけるることだったんだ。骨折だよ。

The Living Years / Mike Rutherford

このとき、マイク・ラザフォードは左手の人差し指を骨折して夜間の救急病院に搬送されるのですが、翌日(11月30日ピッツバーグ Syria Mosque)以降のライブは、添え木と包帯をした指でライブを乗り切ったのだそうです。このときまだメンバーにはピーター脱退が知らされてなかった可能性が高いのですが、満を持してスタートしたはずのツアーを、こんな怪我でキャンセルするわけにはいかないというのは分かりますが、「気合いで乗り切った」とのことで、まあ若さですね。それで本当に12弦ギター弾けたのでしょうか(笑)

I managed it somehow - if you're determined enough, you can find a way to do most things - but my abiding memory of the show was the way that, every time the UV lights came on, my huge, white-bandaged finger glowed like a beacon.
どうにかこうにか - やろうと思えば、たいていのことはできるものだよ - でも、UVライトがつくたびに、包帯を巻いた大きな指がビーコンのように光っていたのが印象に残ってるよ。

The Living Years / Mike Rutherford

ジェネシスというと、ツアーに奥さんやパートナーを同伴したり、ドラッグともあまり縁のない品行方正バンドというイメージがあるのですが、The Lambツアーの際は、結婚直前のフィル、離婚直後のスティーブに、マイクもまだ独身なのです。彼らと何人かのローディーが一緒になって、やはりよくあるロックバンドのツアーと同じようなことが行われていたわけです。フィルも、「The Lamb ツアーではそれまでで一番ハッパをやったので、あまり良く思い出せない」みたいな事も言っていますし、マイク・ラザフォードの自伝にもハッパがらみのエピソードは結構出てくるのです。またスティーブ・ハケットの自伝のタイトル A Genesis in my Bed というのは、このツアーのときに一夜を共にした女の子がベッドの中でつぶやいた言葉だそうで(自伝になんちゅうタイトルを…ww)、過酷なツアーの間には、まあ皆さんそれなりにヨロシクやっていたのです。ちなみに、ドラッグから距離を置いていたピーターと、Foxtrot ツアーの頃から奥さん同伴を基本としていたトニーは、こういうお遊びにはほとんど加わっていなかったというのは本人たちの名誉のためにつけ加えておきましょう(笑)(*2) 実際、ローディーが女の子をピックアップするときに、「ピーターのメイクを手伝ってくれないか」という決めぜりふがあったそうなのですが、そうやって楽屋に通された女の子がその後ピーターと云々という話は調べた範囲では見かけませんでした。まあその後ローディーとの間で Counting out Time があったのかどうかもよく分からないのですが(笑)


The Lamb のニューヨーク上陸

The Lambのツアーが初めてニューヨークを訪れたのは、12月6日のことでした。3400人収容の、Academy of Music で2夜連続のライブを行ったのです。彼らは「ちょっとびくびくしながら」ステージに立ったそうですが、観客の反応は全く問題なかったそうです。ただ、このときは The Waiting Room の演奏中に、ステージの電源が落ちてしまうというアクシデントがありました。これはヒューズ切れが原因だったのですが、暗闇でローディーが松明を持って原因究明と処理をする間、フィル・コリンズがドラムソロで場をつないだのだそうです。このとき聴衆は、これも演出の一部だと思った人も多かったようなのです。そしてニューヨークの2日目もまた同じ曲の演奏中にヒューズが飛ぶのですが、このときはもう準備万端で短時間で回復できたのだそうです。そして、このニューヨークでのショーが、様々な媒体で絶賛されたのでした。ショーをレポートしたメロディメーカー誌は(アルバムを酷評したにも関わらず…)、これまでロックのアルバムの舞台的な表現を試みた、ザ・フー、キンクス、デヴィッド・ボウイ等がそれほどうまく行っていなかったことを引き合いに出して、「演劇的な小道具、照明、そして最後に音楽という複雑な個々の要素の完璧な実現が、これまでの大物アーチストに比べても恥じないものである」という評価をしたのでした。

もうひとつ、The Lambの初のニューヨーク公演は、スティーブ・ハケットにとっても人生を変えるきっかけを提供したのでした。このとき、楽屋を突然訪ねてきたのが、後に彼と結婚することになる、画家のキム・プーアだったのです。このときプーアは、Trespass の作品 Stagnation にインスパイアされたリトグラフをバンドに送り、コラボレーションを申し込むのです。これに感激したスティーブ・ハケットは、この 1st American Leg 終了後、クリスマス休暇で本国に帰るメンバーと分かれて、ひとりキム・プーアを故郷のブラジルに訪ねる旅に出たのでした。

資料:全公演日程と会場

ツアー日程と公演会場は以下です。
(太字はBootleg音源が存在するライブです。Bootlegの情報は、Paul Russell著 Genesis play me my song  a live guide 1969 to 1975 を参照しています。)

  1. 11月20日 Chicago, Illinois (Auditorium Theatre)

  2. 11月21日 Chicago, Illinois (Auditorium Theatre)

  3. 11月22日 Indianapolis, Indiana (Indiana Convention Center)

  4. 11月23日 St. Louis, Missouri (Ambassador Theatre)

  5. 11月25日 Cleveland, Ohio (Music Hall)

  6. 11月26日 Cleveland, Ohio (Music Hall)

  7. 11月27日 Columbus, Ohio (Veterans Memorial Auditorium)

  8. 11月28日 Detroit, Michigan (Masonic Temple Theatre)

  9. 11月29日 Fort Wayne, Indiana (National Guard Armory)

  10. 11月30日 Pittsburgh, Pennsylvania (Syria Mosque)

  11. 12月1日 Baltimore, Maryland (Lyric Theatre = Opera House)

  12. 12月2日 Washington D.C. (Warner Theatre)

  13. 12月4日 Richmond, Virginia (The Mosque = now Altria Theater)

  14. 12月5日 Philadelphia,Pennsylvania (Philadelphia Civic Center)

  15. 12月6日 New York, New York (Academy of Music)

  16. 12月7日 New York, New York (Academy of Music)

  17. 12月8日 Providence, Rhode Island (Palace Concert Theater)

  18. 12月9日 Boston, Massachusetts (Music Hall  現Wang Theatre)

  19. 12月11日 Albany, New York (Palace Theatre)

  20. 12月12日 Waterbury, Connecticut (Palace Theater)

  21. 12月13日 Passaic, New Jersey (Capitol Theatre)

  22. 12月15日 Montréal, Canada (Forum de Montréal)

  23. 12月16日 Toronto, Canada (Maple Leaf Gardens)

  24. 12月17日 Rochester, New York (Auditorium Theatre)

  25. 12月18日 Buffalo, New York (Century Theatre)

  • 12月2日のWashington D.C.公演は、12月3日という説もあります。

  • 12月14日は、Indianapolisで予定されていたライブはキャンセルとなったという情報(Wiki他)と、Kansas Cityで実施された(Paul Rusellの著書)という両方の情報があり、その日の Kansas City のブートがあるそうなのですが、さて?

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【注釈】

*1:実は、メンバーがいつピーターの脱退を知らされたかの証言には、かなりの食い違いがあります。1992年の再結成ツアーの際に公式伝記本として出版された Genesis Chapter&Verse の中ですら、トニー・バンクスとピーター・ガブリエル、トニー・スミスの証言が異なっています。バンクスとガブリエルは、クリーブランドでのライブ直後にホテル( Swingos Hotel )に戻って行われたグループミーティングで伝えられたとしていますが、トニー・スミスは「メンバーの動揺を考えて、数週間伏せていた」とコメントしているのです。ピーター・ガブリエル正伝には「メンバーにはカナダで伝えられた」との記述があり、またフィル・コリンズはある雑誌のインタビューで「クリスマスの頃に伝えられた」と証言しています。このときのカナダでのショーは、12月15日、16日ですので、ここはトニー・スミスの記憶の方が正しいような気がします。Genesis Chapter&Verseには、その他ピーターの証言として、「最後のライブはサンティエンヌ」という記述があるのですが、これはブザンソンの間違いで、案外適当なんです(^^;) また、フィルの自伝 Not Dead Yet には、マンチェスターのホテルでピーターから告げられたと書かれているのですが、だとすると75年の4月27日か28日のことになるので、さすがにこれは遅すぎると思います。トニー・スミスだけでなく、メンバーもたびたびピーターを慰留していたそうですので、これはそういう話し合いがフィルとピーターの間で行われた日ということかもしれません。そして、トニー・スミスの記憶が正しいのなら、メンバーは 1st American Leg の最終盤までは、ピーターの脱退については知らされていなかった事になります。

*2:そもそも、Foxtrotのレコーディング中に結婚したトニー・バンクスが満足に新婚旅行にも行けなかったため、その後のツアーに奥さんを連れて行ったのがツアーにパートナーを帯同することのはじまりでした。ジェネシス一の堅物はやはり大方の予想通りトニー・バンクスなのです。(彼は離婚歴もありませんし) ただ、彼がThe Lambの最初の北米ツアーに奥さんと一緒だったかどうかは、確認できていません。


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