〜第10章〜 The Lamb その後 (1)幻となった The Lamb 映画化プロジェクト
さて再び話は70年代に戻ります。ジェネシスを脱退した後に、ピーター・ガブリエルは再び、The Lamb 関連の企画を動かそうとするのです。
映画化プロジェクトのスタート
1978年、ピーターはすでに音楽活動に復帰して、ロバート・フリッププロデュースによる 2ndソロアルバム(scratch)をリリースした後に再び、The Lamb のプロジェクトを立ち上げるのです。それがかねてからの念願だった映画化です。
そもそも The Lamb の映画化というのは、ストーリーの構想段階からピーターの頭にあったのだと言われています。そして、ソロとして音楽活動を再開したものの、1st、2nd アルバムが、いずれも商業的には成功と言い難く、ピーターとしては自身のミュージシャンとしての先行きすら見えない状況のなか、このプロジェクトを始動させるわけです。
そしてピーターは、かつて The Lamb 構想の際に影響を受けた映画、エル・トポ、ホーリーマウンテンの監督である、アレハンドロ・ホドロフスキーこそ、この映画の監督としてふさわしいと考えて、コンタクトを取るのです。この頃ホドロフスキーは、SFの古典である「砂の惑星」の大作映画化に失敗した直後で、彼の所在を捜すのがなかなか難しかったといいます。それでもピーターは彼の行方を突き止め、ついにパリで彼と面談することに成功するのでした。
音楽に全く興味が無いというホドロフスキーは、突然訪ねてきたピーター・ガブリエルが、何者かもわからなかったそうなのですが、それでも熱心にThe Lamb のプロットを説明するピーターに賛同し、最終的に映画の監督を引き受けることに同意します。
そして翌1979年の夏にホドロフスキーは、バースのピーターの自宅に3週間滞在して、The Lambの脚本化に取り組んだのでした。
ピーターが後に melt と呼ばれる 3rd アルバムのレコーディングを進めていた79年10月、彼は自宅で催したバーベキューパーティの会場で、その場にいた写真家・ジャーナリストのアルマンド・ギャロ(Armando Gallo)に The Lamb の映画化の話を披露します。「ストーリーはほとんど変わらない」「特殊効果は『スター・ウォーズ』や『エイリアン』を手がけたスペシャリストが担当するかもしれない」、さらに「主役のレエルは自分が演じるつもりだ」とまで語っていたのです。永年憧れた映画監督であるホドロフスキーが同意してくれて、脚本化も進み、舞い上がっていた状態であることは明らかです。ところが、物事はそう簡単に進まなかったのでした。
ホドロフスキーとのすれ違い
もともと、ピーター自身が映画においてレエルを演じたいというのは、本人の希望としてホドロフスキーに伝わっていたのでしょう。それに対して、ホドロフスキーは当初ピーターが一体何者かも知らず、79年夏の脚本化のための共同作業を終えた段階に至っても、The Lamb を「聴いたこともない」人物だったのです。従ってホドロフスキーは、ステージ上でのカリスマである「ピーター・ガブリエル」の事を全く認知しておらず、目の前のシャイな人物に映画の主役ができるなどという事は想像もできなかったのでした。(*1) 恐らくですが、断るつもりで「それならもっと体を絞らないと」みたいな、適当なことを言ったのでしょう。それを真に受けたガブリエルは、「毎朝、ソルズベリー・ヒルまでの2マイルをジョギングするようになったし、週に2、3回はダンス・クラスに通っている」と語るように、トレーニングまで始めていたのでした。ところが、最終的にホドロフスキーは、ピーターの主演を認めなかったのです。
音楽著作権の問題
もう一つガブリエルに立ちはだかったのは、サウンドトラックの問題でした。The Lamb のストーリーの著作権はすべてピーターひとりが所有していました。つまり、映画化するにしても彼の独断でことが進められるのです。ところが、音楽の著作権については、ジェネシスのメンバー全員との共有となっていたわけです。従って、サウンドトラックとして再演するにしても、メンバー全員の同意が必要なのです。ジェネシスのメンバーとは相変わらずコンタクトがあり、仲違いしていたわけでもないのですが、一方のジェネシスはフィル・コリンズがボーカルを務めて以降、世界的に人気が拡大し始めていた時期です。79年といえば、すでに and then there were three(邦題:そして3人が残った)がリリースされ、シングル盤 Follow You Follow Me のスマッシュヒットも生まれ、来日公演も含む過去最大規模のワールドツアーが終了したタイミングなのです。この頃にもなって、ピーター・ガブリエルから「The Lamb を映画化するのでサウンドトラックを一緒に演奏してくれないか」という突然のオファーに、3人が良い返事をするわけがありません。これはピーターのソロ作品にミュージシャンとして協力するのとは、ちょっと次元の違う要求なわけです。そして実際、このときジェネシスのメンバーは、この件に同意を渋ったのでした。
そして資金難
さらに決定的だったのは、資金面の問題でした。ホドロフスキーと作った脚本を映画化するために必要な予算は、当時としてはかなり多額な500万£(当時の円£レート換算で20〜26億円程度)と見積もられたのでした。(エイリアンの製作費が約1100万£だったそうで、その約半分というのは、カルトな映画としてはかなりの予算でしょう)。
このとき、自身も映画好きだったカリスマレコードの社長、トニー・ストラットン・スミスがカリスマ・フィルムズという会社も持っており、ここがその資金集めに乗り出したのでした。ところが、この時期のピーター・ガブリエルのネームバリューではその資金が集まらなかったわけです。1st、2nd のソロアルバムが商業的には失敗と見なされる結果であり、起死回生のヒットとなる 3rd はまだリリースされていないばかりか、ちょうど 3rd のパイロット版を聴いたアメリカのアトランティックレコードに「商品性がない」とまで言われて契約解除されるというような時期とも重なっているわけです。そういう意味では、音楽活動を再開したにも関わらず、未だヒットに恵まれない元ジェネシスのボーカリストにとって、映画の資金集めなどできるような状況ではなかったのでした。(*2)
こうして、ピーターの夢だった映画プロジェクトは、脚本化された後の現実問題をクリアすることが出来ず、日の目を見ることがなかったのです。
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【注釈】
*1:The Lamb Lies Down on Broadwayを聴いたこともなかったホドロフスキーは、後にパリでトリビュートバンド The Musical Box が演じた The Lamb の再現公演を見たのだそうです。83歳になっていたホドロフスキーは、このとき初めて、ピーター・ガブリエルがステージ上で何をしていたのかを知ることになり、「あの男(ガブリエル)が何を言いたかったのか、やっとわかったよ!(ピーターがレエルを演じることについて)今ならイエスと言うだろう、なぜなら彼の演技を知っているからだ」と語ったそうです。
*2:ピーター・ガブリエルの3rd(melt)は、1980年5月リリースです。このアルバムが起死回生のヒットとなるわけですが、恐らく79年の暮れ頃から80年の初頭にかけての時期に、映画の資金集めは頓挫していたのだと思われます。