〜第8章〜 The Lambツアーの全貌 (1)ツアーの概要
1974年11月20日、アメリカシカゴの Auditorium Theatre で、The Lamb Lies Down on Broadway のツアーはスタートします。
ロンドンとアメリカでのリハーサル
ジェネシスは、まだアイランドスタジオでのフィニッシュワークが終了する前、74年10月の初旬、スティーブ・ハケットが怪我をする直前から、ツアーに向けたバンドのリハーサルをロンドンで開始しています。これは、シェパーズ・ブッシュ地区のダンススクールの地下室(ここはFoxtrotの曲作りの頃から利用している)をレンタルし、ここにPAシステムを持ち込んで行われました。
さらに11月に入ってからは、バンドはアメリカのテキサス州ダラスに移動し、永年アメリカツアーのPA等を担当するShowco社が手配した巨大な倉庫で2週間ぶっ続けでリハーサルを行うのです。ちなみにこの2週間の間、彼らは1度も照明等も含めたフルテスト・コンサートを行うことが出来なかったのだそうです。それは、このショーのために作り込んだ、細かい照明アレンジやスライドのシンクロ等、新しい試みが多すぎたために、それぞれの課題をクリアする事に追われたためだと言われています。
このとき、2枚組のアルバム全曲を通しで演奏するというのは、かなり危険な賭けでした。というのも、当時アメリカでジェネシスよりもはるかに人気があったバンド、イエスが、2枚組の最新アルバム、Tales From Topographic Oceans(邦題:海洋地形学の物語)を全曲演奏するアメリカツアーを実施したのですが、これが不評をかい、ツアー中にセットリストを大幅に見直す必要に迫られたという出来事があったのです。このことをジェネシスのメンバーも認識しており、アメリカ公演の直前のインタビューで、ピーター・ガブリエルはこうも語っているのです。
元々ピーターは当時「ロックコンサートは全体としてもっと映画のようであるべきだ」という信念をもっており、それに基づいてThe Lambのショーを作り込んでいったわけです。そのため、ここで新曲が受けなかったとしても簡単にセットリストを変更することもできないわけで、もしそうなったらツアーは丸ごと中止になるという、まさに背水の陣のような形でのツアースタートとなったわけです。
しかし実際は、北米、ヨーロッパで100回以上ものショーが行われたわけです。もちろんこれには、アルバムの出来に「少し自信が無い」状態だったマネージャーのトニー・スミスが、あらゆる手段を通じて強力にプロモーションを行ったことも成功のひとつの要因であったと思いますが、集まった観客のリアクションは決して悪くなかったということなのです。
膨大な機材とコスト
このときのツアーでは、楽器、音響機材、照明機材、そして舞台のセットなどを運搬するために、2台の大型連結トラックが用意されたそうです。さらに、特に大きなホールで公演する場合は、追加でもう1台トラックが用意されたそうです。当時のロックバンドのツアーの規模を語るとき、このトラックのサイズや台数を引き合いに出すことがよくありました。この前年にアメリカをツアーしたEL&Pは、ジェネシスの倍の4台の連結トラックでツアーしたそうですし、ローリング・ストーンズに至っては、ミュージシャンひとりにつき3台のトラックが使用されたと伝えられています。大きな会場でライブを行えば、当然PA等の機材が増えるわけなので、これがステージの規模を語るバロメーターとなっていたのですね。さすがにEL&Pやストーンズには劣りますが、この頃のアメリカでのジェネシスの人気度から言うと相当に張り込んだツアー機材だったと言えると思います。
また、これらのセッティングや会場でのオペレーションをするためのクルーの人数も立派なものでした。The Lamb ツアーのロードクルーはアメリカ人、イギリス人混成部隊が総勢20名程度と言われており、これも当時のアメリカでのジェネシスの人気度から考えて、不相応なくらいの規模だったそうです。さらに当時この機材が盗難に遭うことが多く、一度盗難に遭うとライブができなくなるため、特別に盗難対策の監視要員として追加で2名が雇われたのだそうです。
結局それまでのツアーでも舞台演出に凝るあまりに、機材やロードクルーの人数も増え、これらにコストがかかって赤字になっていたわけで、その赤字の累積がこのとき20万£にも膨らんでいたわけです。それにもかかわらず、The Lambのツアーは、これをさらに進めた「攻めた」ツアーとなっていたのです。このときのバンドの人気度から考えると、過大と言われても仕方ない程の規模、つまり過去最大にコストがかかるツアーを企画したわけなのです。(*1) そして、これは観客動員数を増やして、その売上やレコードの売上でカバーしようという目論見だったのでしょうが、これが「無謀」と言われて誰にも止められなかったというのは、それまでも彼らをバックアップしてきたカリスマレーベルの社長トニー・ストラットン・スミスの存在に負うところが大きいのだと思います。
凝った仕掛けとスッキリしたステージ
楽器やステージ機材を運ぶトレーラーの数が当時のロックバンドのライブ規模のステータスだった時代ですから、実際のステージにも、山のようなスピーカーを置き、ワット数を競うようなことが普通に行われていた時代です。ジェネシスも相当な機材をトレーラーで運んだわけですが、それに反して彼らのステージは実に簡素に見えるものでした。客席からはステージ上のPAやラウドスピーカーがほとんど隠されており、観客はどこからともなく音が出てくるような体験をすることになったのです。
さらにThe Lambのステージで最も特筆すべきだったギミックは、ステージ後方に設置された約2.6×3.5mの3面のスライドスクリーンでした。(*2) 現代のような、LEDの画面に実写やCG画像が映し出せる設備が無かった70年代において、ステージ上にスクリーンを設置して、そこにスライドによる映像を映写してコンサートを行うというのは、かなり斬新な企画だったのです。しかもそのスクリーンは3面もあり、ショーの最初から最後までほとんど途切れることなく、スライドはそれぞれシンクロするような動きをしたわけです。(*3)(The Waiting Roomの演奏中だけ一時的にスライドが中断し、ガブリエルが中央のスクリーンの後ろで影絵のようなダンスをするという瞬間はあったそうですが)
ちなみにこのスライドショーに使われたのは合計7台のコダックS-AV2000というスライドプロジェクターで、80枚のスライドが入る丸形のカセットが装備されているものです。スクリーン3面に対して7台も用意されたのは、スライドのフェードイン、フェードアウトを実施するために左右スクリーンに各2台、中央のスクリーンだけは3台のプロジェクターが使われたからです。ショーでは、さすがにこれら7台のプロジェクターのシンクロには、特別な制御機材が制作されたようですが、大元は人間が操作するわけですし、合計18本も用意されたスライドカセットをライブ中に交換するのもスタッフの人力なわけで、かなりアナログな操作が行われていたわけです。
ステージの基本は、Selling England ツアーの時と同じ、Black Show と呼ばれるスタイルで、会場内の光る要素をすべて隠して、ステージの照明が映えるようにコントロールするという手法です。これは「観客がステージに没入する体験」を最大化するための仕掛けです。これがもともとピーター・ガブリエルがライブで目指したものなのですが、The Lambのステージでは、新たなギミックも導入し、さらに効果を追求したわけです。さらにこのステージでは、ピーターは衣装チェンジを控えた分、ステージのあちこちに移動して、そこから突然現れるような演出を多用しました。これはピーターの動きと、会場の照明がうまくシンクロしないと効果が台無しになってしまう(移動中のピーターが見えてしまう)ため、事前にピーターの動きと照明の手順をかなり細かく取り決めておく必要があるのです。さらに、今回は、それほど光量が強くないスライドプロジェクターで写真を映写するという仕掛けが加わったために、これを照明と共存させる必要が生じ、なおさら緻密なオペレーションを行う必要が生じたのだそうです。また、ステージではフォグマシーンも多用していました。当時のフォグマシーンは、今と違いドライアイスを使うもので、大量のドライアイスの調達だけでなく、これを管理するオペレーターもかなり大変な仕事だったのでした。そしてこれら全ての要素が、音楽の進行とともに緻密にオペレーションされないといけないわけです。それだけ大変というか、当時としては前代未聞のステージをジェネシスは行ったというわけです。
結果The Lambのステージは失敗だったのか?
ジェネシス関連の資料をいろいろ読んでいると、メンバーのこのツアーについてのネガティブなコメントばかりが目につきます。
これらだけを読んでいると、The Lambのショーはトラブルばかりだったような印象を受けるのですが、オーディエンス側からは、全くそうではなかったのです。写真家のロバート・エリス(Robert Ellis)は、ツアーに帯同し、少なくとも12回のステージの撮影を行った人物ですが、彼の記憶によると、確かに「スライドが完璧に挿入されていなかったためにスクリーンが白くなったことがあった」そうで、小さなミスがあったことは認めていますが、個人的に事故と言えるような経験をしたことはないと語っています。また、ベルリン公演のレビューを書いたドイツのジャーマン・サウンズ誌(The Lambのアルバム評を掲載しなかった雑誌)の記者インゲボルグ・ショーバー(Ingeborg Schober)は、ショー全体についてはかなり批判的な記事を書いているにも関わらず、スライドショーについてだけは「これまで見た中で技術的に最も完璧なものだった」とコメントしているのです。それどころか、通しのリハーサルすら出来ずに、ほぼぶっつけ本番で行われた1974年11月20日、シカゴでの初日のレビューですら、「圧倒的」で「見事」なスライドショーと書いたメディアがあった程なのです。
100回以上のステージをすべて経験したメンバーは、演奏中に起きたミス、特にスライドに関しては「またかよ」という印象を持って、それが強烈な記憶として残っているのでしょうが、一期一会のオーディエンスから見れば、多少のミスがあったとしても、あまりにも斬新で見たこともない「圧倒的」なショーであったのでしょう。そしてこのことが、合計100回以上も、アルバム全曲通しのコンサートを完遂できた要因だったのだと思うのです。
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【注釈】
*1:1973年12月、 Selling England ツアーでロサンゼルスを訪れたとき、アトランティックレコードのトニー・ハリントン(Tony Harrington)は、メンバー全員をアナハイムのディズニーランドに招待しただけでなく、「毎晩のように」ディナーに招待したそうです。彼は、「ミュージシャンたちがいつも同じ服を着ていて、靴はボロボロだった」「白黒テレビがまともに動かない、粗末なモーテル(サンセット・ストリップのトロピカーナ・ホテル)に収容されているのを見るのはちょっと残念だった」と証言しています。直前のツアー時でもまだ彼らはこういう状況だったわけで、The Lamb ツアーでさらにコストのかさむライブをやるということがどれほどの冒険だったかという事だと思います。
*2:ピーター・ガブリエルは、ステージの企画段階で、画期的なアイデアをいくつか考えていました。ひとつは、背景のスライドプロジェクターの映像を3D化して、観客にメガネをかけさせるというものでした。これは技術的には可能だったのですが、メガネのコスト問題でボツになったそうです。もう一つはさらに過激なアイデアで、バンドメンバー全員がバイオフィードバックセンサーをつけて、心拍、体温、脳波等を計測し、ミュージシャンの身体機能と気分をステージの光と音のデザインに反映させるというものでしたが、さすがにこれは当時技術面の問題があり実現しなかったのでした。
*3:このスライドは、アムステルダムを拠点とするERG(Eventstructure Research Group)という会社のスタッフ、オランダ人のテオ・ボッチュイヴァー(Theo Botschuijver)とオーストラリア人、ジェフリー・ショー(Jeffrey Shaw)が担当して制作したものです。ちなみに彼らは依頼を受けてスライドを制作する過程で、一切ヒプノシスのメンバーとのやりとりは無かったと証言しており、3面スクリーンが、アルバムジャケットの写真のレイアウトと類似しているのは、単なる偶然の一致だそうです。スライドの内容は、ピーターと頻繁に電話で打ち合わせしながら制作したそうで、ここにはかなりピーターの意見が反映されているそうです。ちなみに、ボッチュイヴァーは、ロンドンのクリスタル・パレスで行われたリック・ウェイクマンのJourney to the Centre of the Earth(邦題:地底探検)のショーの演出に、伝説的な恐竜の風船を提供した人物であり、後のピンクフロイドのAnimalsのジャケットやコンサートで使われたブタの風船も彼の手によるものだそうです。また後の1978年のジェネシスのMirrors Tourと言われる、ステージ上につるした鏡のギミックを作ったのも、そのコンサートでのレーザー光線の機材を開発したのもこの会社なのだそうです。