〜第8章〜 The Lambツアーの全貌 (4)1st European Leg (1975年2月19日〜4月12日)
2nd American Leg終了から約2週間のオフをはさみ、75年2月19日からノルウェー、オスロを皮切りに、53日間で33公演が行われます。このとき、2日連続で同じ会場で演奏されたのは、ポルトガルとスペインのバルセロナだけで、あとはすべて1都市1公演というツアーでした。このツアーは、「大成功」に終わったツアーとして記録されています。アルバムリリースから3か月たち、すでにファンはじっくりとアルバムを聴く時間があり、さらにアメリカ公演の高評価が伝わっており、盛り上がったのだと思われます。
初日、オスロの「カタストロフ」公演
必要な機材はアメリカから一旦イギリスに送られ、再び大型連結トラックに積み込まれ、フェリーでヨーロッパに渡ったそうです。そして、このトラックが最初の公演地、ノルウェーの首都オスロに向かうのですが、ここで大変な事態が発生します。オスロの公演会場から20Kmほど離れた丘の頂上付近で、折からの猛吹雪のため、連結トラックが立ち往生してしまうのです。先に会場についていた小型トラックが救出に向かうのですが、そのためには、まず深夜に機材をホールに下ろさなければなりません。このとき急遽たたき起こされたホールの管理人が夜中にもかかわらずホールの鍵を開けてくれ、荷物を下ろした空のトラックが救出に向かうのです。このとき、ホールの前で徹夜で待っていたノルウェーのファンが、このトラックに同乗して、臨時のローディーを買って出てくれたのだそうです。(*1) ところが、今度はこの小型トラックも最後の丘の凍結路面を登ることができなかったのです。結局、立ち往生したトラックとトラックの間を、猛吹雪の中フライトケースに入った機材をハンドキャリーするという、まるで映画のワンシーンのようなことが行われたのでした。こうしたローディーとファンの奮闘の結果、初日のオスロ公演は定時にスタートすることができたのでした。ところが、この公演はそれだけではすまなかったのでした。本編最終曲 it の最後で、閃光と煙を発生させるために使われる火薬の量をあるローディが間違えて、大爆発が起きてしまったのでした。(*2) この爆発は、人的被害がなかったのが不思議なくらいの大爆発で、ステージ上のセットや、ラウドスピーカーが一部破損して、その破片が客席のかなり遠くまで飛び散ったのだそうです。何よりステージ上のメンバー全員が一時的に耳が聞こえなくなり、演奏を継続することが出来ず、ここでコンサートが打ち切られてしまったのでした。(破損したラウドスピーカーのスペアは、2日後のコペンハーゲンに改めてイギリスから送られて間に合ったそうです)
ドイツでのジャーナリストツアー
このヨーロピアンツアーで、マネージャーのトニー・スミスが企画したプロモーションが、メンバーが移動するツアーバスにジャーナリストを同乗させるというものでした。バンドは、2月22日にドイツのハノーファーで4,000人、23日に西ベルリンで6,000人の観衆を前にライブを行うわけですが、この2都市間の移動に、複数のジャーナリストが招待されたのです。ここには、The Lambのアルバム評を掲載しなかった媒体の記者も招待されたそうです。既婚者のトニー・バンクスと、ピーター・ガブリエルは、奥さんも同乗していたそうで、ピーターの奥さんジルは、生まれたばかりの乳飲み子を抱いて参加していました。このときのツアーでは、33公演のうち11公演がドイツ公演で、当初小さな会場をブッキングしていたのに、急遽大きな会場に変更となった会場が複数あるそうです。この、最初のヨーロッパツアーの成功の要因はドイツ公演の好調ぶりによるところが大きく、これは、このときのプロモーションツアーの成果もあったのかもしれません。
カーネーション革命直後のポルトガル公演
1974年4月25日、若手将校が決起してポルトガルの独裁政権を打倒したのがカーネーション革命です。革命からまだ1年も経過していないこの時期にジェネシスは初のポルトガル公演をブッキングしたのです。ポルトガル国内は依然として不安定な状況にあり、ロジスティクス上の問題や、舞台演出に使うドライアイスの入手に苦労したりと、想定外のトラブルに見舞われながらも、彼らは2回のコンサートをリスボンから西に25Kmの都市、カザイスで行うのです。独裁政権時代にあまりロックコンサートに触れられなかった若者が熱狂し、このとき、The Lamb のストーリーのポルトガル語翻訳が作成されて配布されたり、これがラジオで放送されたりして、ライブは大きく盛り上がったのだそうです。ホールは6500人収容のかなり大きなホールでしたが、初日にチケットが入手できなかった数千人の若者が会場に押し寄せ、さらに2日目には初日のコンサートの評判を聞いた人がさらに増えて会場前が暴動状態となり、軍が装甲車を派遣するほどの騒ぎになってしまったそうです。この事態に当局は、2日目の公演中止を要請したのですが、バンドはそれを受け入れずライブを敢行。ライブ終了後に長時間会場から出られない状況になったそうです。
たった1度のイタリア公演
ジェネシスの歴史に詳しい人ならば、彼らが本国イギリスより先にイタリアとベルギーで人気が出たということはご存じだと思います。特に初期のイタリアツアーでの良い思い出をメンバーは持っていたはずです。ところが、このときのツアーで、イタリアでは1公演しか行われていないのです。これは後にMovimento del '77(77年運動)と呼ばれる左翼系の政治・文化運動が盛んな時期だったためと解説されています。イタリアでは、この運動の一環として「コンサートなどの文化的イベントは無料で行われなければならない」という機運が若者の間で盛り上がり、高額なチケットで公演を行ったミュージシャンの会場で抗議活動や無料入場を求めて、時に暴動が起きることがよくあったのだそうです。ちなみにこのような暴動は、1971年7月5日、ミラノでのレッド・ツェッペリンのコンサート(Riot Showというブートが存在する)でもすでに起きていて、「77年運動」との名称ですが、70年代のイタリアは、ずっとこんな雰囲気だったのでしょう。そして3月24日にトリノでたった1回だけ行われたジェネシスのコンサートでも、恐れられていた混乱が実際に起きてしまい、このとき楽屋に暴徒が乱入するということが起きたそうです。その結果ジェネシスは「二度とイタリアには戻ってこない」という約束をさせられて、その後警察が彼らを国境まで護衛する事態となったのでした。警察が先導して国境まで行くというと、ちょっと聞こえが良いのですが、経緯を考えるとこれはまさに国外追放とも言える仕打ちではないかと思います。(*3)
資料:全日程と会場
ツアー日程と公演会場は以下です。
(太字はBootleg音源が存在するライブです。Bootlegの情報は、Paul Russell著 Genesis play me my song a live guide 1969 to 1975 を参照しています。)
2月19日 Oslo, Norway (Ekeberghallen)
2月21日 Copenhagen, Denmark (Falkoner Teatret 現Falkonersalen)
2月22日 Hanover, Germany (Niedersachsenhalle)
2月23日 Berlin, Germany (Eissporthalle (ice rink) on Jafféstraße)
2月24日 Amsterdam, Netherlands (Theatre Carré)
2月26日 Cambrai, France (Palais des Grottes)
2月28日 Colmar, France (Parc des Expositions)
3月1日 Dijon, France (Palais des Sports)
3月2日 St. Etienne, France (Palais des Sports)
3月3日 Paris, France (Palais des Sports, Porte de Versailles)
3月6日 Cascais, Portugal (Pavilhão dos Desportos)
3月7日 Cascais, Portugal (Pavilhão dos Desportos)
3月9日 Badalona, Spain, near Barcelona (Nuevo Pabellón Club Juventud)
3月10日 Badalona, Spain, near Barcelona (Nuevo Pabellón Club Juventud)
3月11日 Madrid (Pabellon Deportivo del Real Madrid)
3月17日 Paris, France (Palais des Sports, Porte de Versailles)
3月22日 Annecy, France (Salle d'expositions)
3月24日 Turin, Italy (Palasport)
3月26日 Offenburg, Germany (Ortenauhalle)
3月27日 Nuremberg, Germany (Exhibition Centre, Hall A)
3月29日 Bern, Switzerland (Festhalle)
3月30日 Saarbrücken, Germany (Saarlandhalle)
4月1日 Ludwigshafen, Germany (Friedrich Ebert Hall)
4月2日 Stuttgart, Germany (Killesberg (Messe) Hall 14)
4月3日 Frankfurt (Main), Germany (Jahrhunderthalle, F-öchst)
4月4日 Munich, Germany (Rudi-Sedlmayer-Halle, moved from the smaller Circus Krone)
4月5日 Heidelberg, Germany (Stadthalle)
4月6日 Dusseldorf, Germany (Philipshalle 現Mitsubishi ElectricHalle)
4月7日 Dortmund, Germany (Westfalenhalle, Hall 1 - moved from the smaller Hall 3, because of greater than expected demand)
4月8日 Hamburg, Germany (Congress Centrum, Hall 1)
4月10日 Groningen, Netherlands (Martinihal 現MartiniPlaza)
4月11日 Rotterdam, Netherlands (Sportpaleis van Ahoy 現Rotterdam Ahoy)
4月12日 Brussels, Belgium (Forest National)
4月11日のロッテルダム公演は、2月24日のアムステルダム公演が即日完売したために急遽追加された公演だそうです。
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【注釈】
*1:このとき徹夜で会場前に並んでいたファンは、当日チケットを求めるための人たちだったようで、彼らはこの働きにより、無事全員が「無料」のチケットの提供を受けたそうです。
*2:これは、アメリカとヨーロッパの火薬の規格の違いに起因するミスでした。より爆発力の高いヨーロッパの火薬を、アメリカと同量入れてしまったために大爆発したのだそうです。このミスをやらかしたローディーはその場でクビになったとメンバーが証言しているのですが、その事実はなかったようです。そしてその後火薬の量をチェックするルーティーンがクルーに課せられたのだそうです。
*3:そういえば、1992年のジェネシス再結成のツアーのラストは、イタリアでのフリーコンサートでしたね。When In Rome というタイトルで映像化されています。このときイタリアで「無料」のコンサートをやったというのは、こういう文脈もあったのでしょうか?