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『古き良き時代』

 最近まで、あれも書きたい、これも書きたい、とノートを開けばペンが止まらない日々だったのに、このところ、テーマが見つからない。誰かに読んでもらおうと気負っているわけではない。格好良く決めたいと思っているわけでもない。むしろ、自分の気持ちを整理するために、素直に書いているに他ならない。なのに、ペンが進まない。何を見ても、何をやっても、題材が見つからないのだ。


  私は平穏に生きているのか…

  それとも無神経に生きているのか……

 ステキな人、物、言葉などに出会って感動することはあっても、筆を執ろうという気持ちには至らない。もともと「働けど、働けど、、、」の世の中の矛盾にイライラして「物申す!!」といった気持ちで書き始めることが多かったからだ。

 テーマが見つからない、、ということは世の中が安定していて、不満がなくなったということなのか。それとも、日々起こっている悪質な事件や留まるところを知らないマナーの低下を見聞きしても、疑問や不快を抱くことなく、鈍感になってしまっているのか。

 

 そう言えば、最近、少し気になることがあった。

 それは〈郵便物〉のこと。

ハガキ、手紙、小包、、、

結構、利用するのだ。

お金だって、流行りのPayPayで送金なんて味気ないことは控えたい派。祝儀袋に入れて、現金書留で送る。

誕生日カードやプレゼント。逆算して、きっちりその日に着くように、計画して送る。

なのに、思うようにいかない。ちょっと前まではうまくいっていたのに、最近は遅れるのが当たり前。
コロナがどうとか…燃料費がどうとか…


 市内でも3〜4日かかる。土日を挟むと、もっとかかることになる。もう郵便で送るの止めて、手渡そうかな…と思ったりもするが、待てよ、きっと、予期せぬ手紙やプレゼントが届くと、誰でも嬉しいに違いない。そう思って、ひと手間、かけるのだ。


 いつ届いても構わない物と絶対この日に届いてほしい物とがある。誕生日や記念日の贈り物は、一日もズレてほしくない。遅延を計算に入れて送っても、思い通りにいかない。予め、手続きしてくれる人にいつ届くのか訊ねるのだが、曖昧な返事しかもらえない。どういうことなのだろう。

コンピューターのお陰で手続きは迅速になったが、交通や人の手が加わると、うまく回らなくなるのだろうか。


 40年ほど前のことを思い出した。

国鉄勤務の友達にバレンタインのチョコを贈ろうと荷造りをしていた。手渡しできる距離に住んでいたが、「今年は郵便で送ろう!」と思っていた私の頭の中で、新たな手段がよぎった。「折角なら、国鉄の列車を使おう!!」と。
列車で荷物が送れるなんて知りもしなかったが、ふと、叔母から駅留で荷物が届き、受け取りに行ったことを思い出したのだ。グッドアイディア!!

 早速、近くの駅に向かう。「○○駅で働いている人に届けたい」という旨を伝えると、対応してくれた女性職員の方が、ハッ!というか、オッ!というか、ピン!というか、何かを察知したような表情で「わかりました」と。
そして、茶化すでなし、冷やかすでなし、「社内連絡便扱いにします」と言って送料も取らずに、キューピット役をサラリとキメてくれたことがあった。


 物を届ける。送る。贈る。

そこには、橋渡しをする人の手が入る。

 昔は、ちょっとした心配りも業務の中に垣間見られたような気がする。

「綺麗な字ですね」「素敵なお名前ですね」と、バーコードのない時代には、窓口でのさり気ない会話も交わされたものだ。

 古き良き時代をほのぼのと思う今日この頃である。


 



 

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