中国思想史を想う(4)墨子
儒家への反発から生まれた、極端な方向に走った特異な存在として、ほとんど歴史書から消されたような墨子の存在も無視することはできまい。
墨子、その名の由来は、当時罪人には入れ墨が施され、この人にもそれがあったからだという説があるが、定かではない。
その思想は「兼愛」というもので、「人間を無差別に愛そう」とする博愛主義的な思想であったということだ。
孔子の「家族愛」は家族限定のものだったが、そんなせせこましいものでなく、人類的な、もっと大きなものだった。
この墨子の考えは、宗教的な色合いも強く、「天志」(天の意志)なるものを唱えていた。
「争い、戦争のない平和な世界こそ、天志の望むものであり、われわれ人間はそのような世界をつくり、そこに生きなければならない」
孔子の儒家たちへの反発を大いに含んだ、人間存在への態度だった。
当時、儒家たちは冠婚葬祭、儀礼に基づいて行事を積極的に行ない、多額の儲けを得ていた。
家族の誰かが死んだら、数年は喪に服さなければならない制度もあったという。その間、残された家族は収入も細く、まさに儒家の金儲けのためにあるだけのような「儀礼」だった。
確かに孔子は形式を重んじた。しかし、それも「心」があってこその形であった。だが、弟子たちはまさに形骸化させてしまった。
墨子を中心とした一派は、当時の君主が贅沢をし過ぎることを非難し、その根本思想である孔子の教え、いまや変貌してしまった民を苦しめるだけの心ない形式主義に、真っ向から異を唱えた。
その墨子の思想が最も強固に体現されたのが、「不戦論」であった。
領土欲しさの侵略戦争に対しては、徹底して反対の姿勢を貫いたという。だが、不正を行なう王、為政者、権力者を討つための戦いは、否定しなかった。
墨子には「弱者を守る」という基本姿勢があって、弱小国が強国から侵略を受けた場合、依頼を受けて積極的に防衛戦線に参加した。
かれは「防衛の名人」といわれ、集団を統制し防御力を高めることに、ずば抜けて長けていたという。
物事を固く守ることを「墨守」とよぶ、日本語の語源にさえなっている。
その防衛戦術の巧みさは、しかし墨子たちに「戦争請負業」の業者的役割を課すことになってしまった。
儒家が「冠婚葬祭業」でボロ儲けしていたのと、皮肉にも同じようなかたちに陥ったが、墨子一派は質素な生活を続け、かれらの中に太った姿は全くなかったという。
人間のための労働を第一とする面があり、何しろ弱い者の味方なのだから、氾濫しそうな川の治水工事・歩道の整備など、まさに身を粉にして働いていたといわれている。
戦国時代、最も盛んだった儒家に次ぎ、この墨家は一大社会的勢力だった。「兼愛」の思想が人々の共感を呼び、その「天志」である神のごとき存在は、一神ではなく、山や川、氏神といった、その土地土地にある「八十万の神」であったから、多くの人が親しみ易かった。
だが墨子の死後、墨家は分裂した。あとを継ぐ者はいたにはいたが、初代の墨子の意志は受け継がれることなく終わってしまった。
戦乱の時代が終わり、かれらの経済的基盤であった「戦争請負業」が必要とされなくなったことも要因かもしれない。
政治的な現実主義者の多い中国の土壌にあって、新興宗教的な墨子集団は、きわめて異質な存在だったという。
墨子の「兼愛」思想を、世界で最初に高く評価したのは、ロシアの文豪トルストイだった。