(連載小説:第9話)小さな世界の片隅で。
複雑な気持ちで、あまり、気持ちの良いものではなかったが、
歩の中で、今後起こりうるであろう事すべてを受け止める覚悟ができていた。
歩の運転する、白いハイエースは、通勤の自動車、同業の送迎車、社用車、一般の自動車を含んだ、いつもの地方の幹線道路を、決められた秩序に従っ
た、あの川の様に、流れていくのであった。
(X-7日)
歩の運転するハイエースは、大きな幹線道路から、脇道へ入り、その先の地区の路地へ出る。すぐ先に、時間にルーズな利用者さんの家がある。
車を玄関の前に止め、ハザードを焚き、車から降りて、玄関に向かう。
時刻は、9時37分。玄関の扉を開けて外から、声をかける。
”あはようございます。デイサービスセンターの歩です。〇〇さん、いますか?”
”はぁい…。”
玄関奥のトイレの中から声がする。
再び声をかける。
”〇〇さん、お迎えに来ました。用意大丈夫ですか?”
”はぁい…。ごめん、ちょっと…。”
”あの、準備してたんだけど…、急にトイレ行きたくなっちゃって…、今ちょうど出そうで、出そうで出ないもんだから…、ちょっと待ってて…。”
いつもの感じだ。
再度声かけする。
”デイサービスに着くまで、もちそうなら、そのまま乗っていきます?
それとも、あとで来た方が良いですかねぇ?”
”どうしようかなぁ…。出そうなんだけどね…。何か今8割位の所なんだけど。うーん…。それじゃ、後にしてもらおうかねぇ?”
”分かりました。それじゃ、20分後位にもう一度来ますね。”
”はぁい。ごめんねぇ。”
8割位の所らしいので、再訪する事にした。再訪する頃には、0割に戻っている事を願う。
歩は再びハイエースに乗り込み、次の時間に厳しい利用者さん2名のお宅へ向かう。
細い路地を抜け、再び、幹線道路を通り、別の地区の路地へ入る。さらに、奥の路地の先に次の利用者さんのお宅がある。
同様に玄関前に横付けし、迎えに走る。玄関に着くと、玄関横のベンチで、利用者さんが座って待っていた。
遅れた…と思った。
大きな体格に似合わない、細い白杖を持った、視覚障がいのある、その利用者さんは、ベンチに座ったまま、左手にはめたトーキングウォッチのボタンをゆっくりと押した。”午前9時45分です。”と音がした。
間に合った…。
”お、おはようございます。お迎えに上がりました…。”
”おぅ。ご苦労さん。お願いします。”
利用者さんの手を引き、ハイエースへ乗り込む。
元漁師この利用者さんは、時間帯によって、かすかに見える時もあるらしいが、基本的にほぼ全盲の状態である。ご本人の希望もあり、デイサービスや、ヘルパー、娘さんの時折の訪問等のサービスを利用された上での、独居を希望されていて、日常の身の回りの事は自分で行っている。
家の中は、物は多いが、雑然と散らかっているわけではなく、一定の秩序が保たれている。
その記憶(やほかの感覚)を視覚の代償として使い、生活されているのである。
以前、送迎時にご自身で、着替え(入浴後の替えの下着)を荷物の中に入れ忘れた事に気づき、その場所を聞くと、
”奥の部屋の西側のタンスの大きい引き出しの2段目の左側に、靴下と下着が入っているから、それ持ってきて。部屋の間に敷居があるから、気をつけろよ。”
という返答で、頭の中に(生活範囲内での)家や部屋の構造が丸ごと入っている様であった。これを守るために、この秩序が必要なのである。
それを知らないヘルパーさんや、ご家族さんが、少しでもその位置を変えてしまうと、この利用者さんのカミナリが落ちる。場所が分からなくなってしまうからだ。
そして、この状態をおして、時間までに全ての支度を自分で行い、外で待っているのだから、どんな状態であれ、”遅刻”という事はありえないのである。歩も一度、どうしても間に合わず、謝罪をしながら、迎えに行った事があったが、案の定、そのカミナリに打たれたのだった。
少しホッとし、同地区のもう一人の、時間に厳しい利用者さんのお宅へ向かう。
細い路地を入り、同様に玄関前に横付けし、車内のダッシュボードで時刻を確認する。9時50分。間に合った…。
玄関へ向かと、この利用者(女性)さんも外で待っていた。
”おはようございます。お迎えに上がりました…。”
”おはよう。よろしくね。”
横につきながら、ハイエースへ乗り込む。
良かった…。とりあえず、機嫌はよさそうだ。
この利用者さんは、以前、旦那さんと、自営でクリーニング店をやっており、どんな注文であれ、納期は確実に守るというとこで評判だったらしい。この利用者さんも、元漁師の利用者さん同様、自分に厳しいが故に、人にも厳しい。普段は穏やかであるが、こと、”時間”の事になると、人一倍気にされ、それが破られると、一日中機嫌が悪いのである。
再度ハイエースを走らせ、近隣の地区のもう1人の利用者さんを乗せた後(9時55分)、最初の8割の利用者さんの元へ向かう。
玄関前へ着いた所で、10時2分であった。
8割の利用者さんは、まだ足りない様ではあったが、3割程度を残して、渋々切り上げた様で、玄関前で待っていた。
”ごめんねぇ、待たせちゃって…。”
”いーえ。いいですよぉ。”
少し言葉を交わし、そのままハイエースに乗せて、センターへ向かう。
幹線道路を通り、センターへ着いたのは、10時8分であった。
利用者さん達を介護スタッフと共に、車から降ろし、手指消毒後、座席に案内する。
”調子はどう?今日はちょっと寒かったでしょう?
暖かいお茶が席にあるから、ゆっくり飲んできなね。”
海野さんが、介助しながら利用者さんに声をかけていた。
送迎業務が終わり、リハビリに取り掛かる時には、10時15分になっていた。案の定、15分の時間オーバーだ。
このまま、15~20分刻みで、スムーズに実施できても、12時までに6人は、ギリギリだ。
歩は、おそるおそる、先にリハビリに入っている上司の杉山さんに報告する。
”杉山さん…、すいません…。送迎で時間が押してしまい、午前中に、6人実施するのは難しいかもしれません。何とか回せるよう努力しますが、間に合わなかった場合は、午後に1人、お願いしてもよろしいでしょうか?”
今日の送迎ルートを何故か直前に変えたのは、杉山さんだ。
杉山さんも、たぶんこうなるだろうと予想したはずである。
そして、杉山さんの中では、時間に厳しい利用者の2人が予定時刻に間に合わず、機嫌を損ね、その原因を作ったのが、歩だという方向に持っていきたかった様に個人的には思えたのである。
要するに、歩を責める為の口実を作りたかった様に思えたのだ。
しかし、予想通り、全体の時間は押してしまったものの、個別の予定時刻には、間に合っていた為、その辺りが多分気に入らない。
”え?何?”
冷たい声で杉山さんが返した。
”ですから…、間に合わなかった場合は、申し訳ありませんが、午後に1人追加して頂いてもよろしいでしょうか?”
”いいよ。分かったよ。でも、何で送迎にそんな時間がかかったの?時間、分からないの?”
”利用者さんの事を何にも考えてないんじゃないの?”
”いつもこんな感じじゃん、歩君は。どうすんの?”
周りに聞こえるように、再び声を大きくして、杉山さんは言った。
海野さんが、フロアの遠くの方から、こちらを見ていた。
歩の胸の奥が軽くギュっとした。
”いえ、だから…それは…”
歩は、言いかけて、やめた。
まだだ…。変える所は、ここじゃない。
再び、例の反射に身を任せる。
”いえ。申し訳ないです。”
”とりあえず、早く業務に入って。また、後で言うから。”
”はい。”
歩は、リハビリ業務に入った。
自主トレメニューを行う利用者さん、エルゴメーター、パワーリハビリ等のマシンを使う利用者さん、ホットパック等の物理療法を行う利用者さん、プラットホーム(治療台)の上で治療を行う利用者さん等を複数人リハビリスペースに誘導して、同時進行させ、個々人のリハビリ時間が15~20分になる様、調整しながら、リハビリを進めていく。
なんとか、12時までに、6人の利用者さんのリハビリが終了した。
”終わった…。間に合った…。”
リハビリを終えた歩は、先に業務を終え、事務所のパソコンで記録を書いてる杉山さんの所へ行き、声をかけた。
”杉山さん…、午前中に何とか6人終わりました。午後は追加なしで大丈夫です。”
”そう…。”
”記録に入らせていただいても大丈夫ですか?”
”いいよ…。”
歩は、空いている杉山さんの隣のパソコンで記録を書き始めた。
記録を書いている杉山さんが、再び声をかける。
”歩君さぁ、もうちょっと、真面目に仕事してくんないかなぁ。困るよ、いつまでもこんな感じじゃあ。分かってる?”
(じゃあ、杉山さんだったら、今日の様な状態で何処までできます?)
心の中で思ったが、こらえる。
”はい…。”
再び、反射に身を任せる。
”返事だけなら、誰でもできるんだよ。”
”行動で示してもらいたいね。”
”はい…。以後、気をつけます…。”
”それから、あの資料はどうなってる?”
”あの資料って…。センター利用者さんの疾患の統計と、利用者さん向けに、疾患についての簡単な概要と、その疾患に関われるリハビリの領域についてまとめた資料を作るっていう事を話されていた、あの資料の事ですか?”
”そう、あの資料。”
こういう期限ものを作る事も、歩を追い込む為に、杉山さんがよくやる事だ。
歩は、杉山さんが、一方的に無茶な期限を言ってこない様、対策として、自分から期限をつける事にしている。
”まだ、お話を聞いただけなので、手を付けてませんが、もし作るのであれば、大まかなものを月末を目途に1回作ってみて、杉山さんに提出する様にしますが。”
”うん。じゃあ、それでお願い。”
”分かりました。準備しておきます。”
歩は、記録を書き終えた。
”杉山さん、記録終わりました。じゃあ、お先に失礼します。”
”はい。”
相変わらず、冷たい声で杉山さんは返した。
午後の病棟でのリハビリまでの間は、お昼休憩だ。
病棟の職員食堂へ向かう為、歩はデイサービスを出た。
日はもう、頭上まで登っていた。
ひどく疲れた半日だった。
デイサービスから病棟へ、軽くうつむき、重い足を引きずりながら院内(敷地内)の通路を移動する歩の足元には、朝よりも短くなり、それでいて、なお情けない歩の影が再び、歩にピッタリと寄り添っているのであった。
(次号へ続く)
※本日もお疲れ様でした。
社会の片隅から、徒歩より。
第8話。
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