名も無きサラリーマンの詩(歌)。でもないようなもの。
こんばんは。徒歩です。何とか今日も生きております。また、詩(歌)的なものを作ってみました。
お暇な方はどうぞ。
戦争をしている。国同士が覇権や利権を巡って、お互いの正当性を主張している。
その国同士の裏側にも、色んな国がくっついて。立場やものの見方によって、随分と認識が違う様だ。
そこに至るまでの文脈もある。
最終的に、“お前達は間違っているぞ。”ということらしい。
生存権が脅かされる。
そっちが来るなら、こっちも行くぞと。
正しい事って何だ。間違った事って何だ。
善とは何だ。悪とは何だ。
そんな概念、他の動物は持っているだろうか。
持ってはいるかも。でも、それは、生存本能に組み込まれ、無いと生きては行けない、もっとシンプルでシステマチックなものだろう。
ん?でもそれって、感覚の世界で生きている動物達の感覚を、人間が言葉で切り取って表現しただけのものなのかも。
結局は人間の言葉も、動物の感覚も同じこと?
戦争をしている。国同士が覇権や利権を巡って、お互いの正当性を主張している。
感覚の世界から、人を見てみる。
心が痛むという感覚。
これは、人間だけが持ちうるものではないだろうか。
何でこんな感覚があるんだろう。
生存本能に逆らう様なこの機能。個人によって、強弱はあるけれど、皆持ち合わせているのではないか。
ある人は、それを、人を理解し、共感、ケアをする為に使う。
ある人は、それを、人を理解し、支配、攻撃する為に使う。
戦争をしている。国同士が覇権や利権を巡って、お互いの正当性を主張している。
こと、サラリーマンに置き換えて考える。
会社が乱立し、競争を強いられている。
競争をする事で、よりいいものが生まれ、社会も成長していくとされている。
競争を生き抜いていく為に、また、会社で働き続ける為に、様々なもの(サービスや商品)を作り、売って、利益を上げなければならない。
それは、人に必要とされるものであったり、場合によっては、必要とされる様に見せて買って貰う事もあるだろう。
生きていく為には、とにかく、お金を稼ぐ事から逃れられないのである。
しかしである。その提供されるものは、本当に必要なものだろうか。提供される相手にとって、無くてはならないものなのか。
そう考える時、少し“心が痛む”のである。その人から、何かを奪っている気がするのである。
生存のみを考える場合、この感覚は、本当に必要なのか?
もちろん、この感覚があるから、よりいいものを提供しようと努力する。
価値に見合ったものを提供できるよう努力するのである。
しかし、純粋に生存本能のみを追求した場合、この感覚を無視、あるいは悪用して、収奪することに専念する事が正解か?
戦争をしている。国同士が覇権や利権を巡って、お互いの正当性を主張している。
物事を構成している要素の一部を取り出して考える。
ひょっとすると、世の中のあらゆるものが、1つのものの中に、相対する、対になるものが内包されてできているんじゃないか?
方向には、右と左があるように。
“東”に対して“西”。”南“に対して“東“。
人の感情は、喜怒哀楽。
”喜”に対して”怒”。”哀”に対して”楽”。
心の働きの、“エス(欲動)”と“超自我(モラル(欲動を抑えこむもの))”。
“意識”と“無意識”。
”明“と”暗“。
”陰“と”陽“。
“善”と“悪”。
“神”と“悪魔”。
“男性”と“女性”。
DNAの二重らせん構造。
“生存本能”と”心が痛むと言う感覚“(それにブレーキをかけるもの)
まだ言語化できていないものも、対になっている様な気がする。
あらゆるものが相対する二つの間で揺れ動く様になっているんじゃないか?
この揺らぎを、自身で選べる、あるいは、信じる事が出来る事(本能に逆らう意志の力)を、“自由”というのか?
しかし、同時に、それは、意志の力によって縛られる。
本当の自由とは?
戦争をしている。国同士が覇権や利権を巡って、お互いの正当性を主張している。
磁石に両極があるように、どちらか一方では存在し得ない。一方が消滅した瞬間、もう一方も消滅、あるいは機能を失うのである。
磁石の極が、利己的な生存を追求する方向へ傾倒した場合、周囲を食い散らかし、最終的には何も残らず、結果、自分の首を絞める事になるような気がするのである。
この場合、その極に傾く事のない様な状況を作らない事が大事ではないのか?
そもそも極は存在している。両方の極を含めて、存在し得る環境がある事。ある程度の意志の揺らぎの振れ幅をゆるす寛容さがある事。意志をある程度、解放させられる余裕がある事。
そして、意志を自分でコントロール出来る事。
コントロールできない、多様な環境がある中で、
自分の意志をもった上で、自分の意志に縛られないこと。
極に傾く状況を防ぐヒントにはならないか?
戦争をしている。国同士が覇権や利権を巡って、お互いの正当性を主張している。
今から、何百年後、何千年後、もし人間がまだ生きていたら、その時、神(宗教)や、お金や、仕事、結婚、食糧問題、エネルギー問題、それに伴う利権や利害関係、貧困や飢餓、格差。そして戦争。これらの概念ってまだ残っているだろうか?
現代で、暮らしていく上で離れる事の出来ないもの。縛られているもの。その軛(くびき)を離れることが出来るだろうか?
軛から離れられた時、人は何を始めるだろうか?
何を目指して、どこへ向かっていくのだろう。
そこから、新しい生活の仕方や、考え方が生まれるかもしれない。
それは、究極の自由か、自由という監獄に閉じ込められた絶対的な孤独か。
はたまた、自由と言う重荷に耐えきれず、再び支配的なものの前に、己を投げ出す事になるのか。
僕は、人と共にある自由であってほしい。
僕は、人にとって、良いものであってほしい。
戦争をしている。国同士が覇権や利権を巡って、お互いの正当性を主張している。
大分抽象的になってしまいましたが、名も知らない先人の言葉で、近しい言葉が思い当たるので、紹介します。
”人の振り見て我が振り直せ。“
”情けは人の為ならず。“
また、その上で、
“たぶん、そいつ今頃パフェとか食ってるよ。”
的な人もいてほしいものである。
そんなどうでもいい事を考えた、しがないサラリーマンの、しがない1日でした。
※本日もお疲れ様でした。
社会の片隅から、徒歩より。
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