あの人は教えなかったので
私には「師匠」と呼びたい相手が2人いる。
1人目は、中学の頃にある遊びの相手をしてくれていた先生。
2人目は、大学に入ってからある活動の相談にのってくれている先生。
偶然にも2人とも、ものを教える人だ。
そして偶然にも2人とも、いい大人の男性だ。
よく、優等生が教師に淡い恋心を抱く、というストーリーがある。
もしかすると、私のも、そういう類の感情なのかもしれない、と疑うときがある。
ただ「好き」なんて言うと幼稚な気がするから、「慕っている」と言葉を変えて、誤魔化しているだけなのかも。
そう考えると、「師匠」というかしこまった呼び名は、ある関係から性的な気配を消し去るための御札みたいだとも感じる。
どこかに落としてしまったキーホルダーを懐かしむみたいに、疲れた大人のスーツの匂いが、恋しくなるときがある。
そういうときは多分、「誰でもいい」。
「誰でもいい」けど、できれば父のようであってほしい。
塗装のはがれかけたドアを開けて、どこか遠いところにある「会社」から、私のために帰ってくる男の人は、いつも疲れたスーツの匂いがした。
本当はスーツの匂いなんかじゃなくて、その人自身の匂いだったんだろうけど。
お風呂に浸かって、タオル地のパジャマに着替えた後も、メリットの香りに混じって、さっきと同じ匂いがしていた。
どんなに甘やかな香りよりも、私はあの匂いが好きだった。
横になったお腹にもぐりこんだら、それは母のようには柔らかくない、けれど決して大きくはない堤防のようで。
心にさざ波の立っている、私を丸ごと包んでくれた。
朝が来るまでずっと、そうしてくれていた。
いなくなるまでずっと、誰よりもやさしかった。
小さかった頃は、無邪気な振りをすれば、まだ他の大人に抱きつくこともできた。
今、そんなことをしたら変態になってしまう。
ともすると、刑務所に入れられてしまう。
布団の上で身体を丸めてみても、もう誰も、私を包み込んではくれない。
そういう時、電気の消えた部屋で、一人考える。
「今度は師匠に、どんな相談をしようか。何を教えてもらおうか」
優秀だと褒められることも、知識のお裾分けをしてもらうことも、どれをとっても父の体温の代わりにはならないし、スーツの匂いが嗅げるほど、距離を縮めることもない。
ただ、のどを潤したいがために、道端に積もった雪を食っているのだ。
だからといって、私の師匠たちが素晴らしくないわけじゃない。
私には「師匠」と呼びたい相手が2人いる。
1人目は、中学の頃にある遊びの相手をしてくれていた先生。
2人目は、大学に入ってからある活動の相談にのってくれている先生。
偶然にも2人とも、ものを教える人だ。
そして偶然にも2人とも、いい大人の男性だ。
私には「父」と呼べる相手がいた。
その人は私に、上手な眠り方を教えてくれなかった。
私は知りたかったのだ、あの匂いなしで眠る方法を。
でも、教えてもらえなかった。
だから、今夜も考えている。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?