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お金やモノがなくても、人に喜びを与えることができる―禅「無財の七施」

「無財の七施(むざいのななせ)」

法要のときにお寺さんに包む志、「お布施(ふせ)」と書かれた封筒に入れて、お渡しします。
「布施」。
ふだんはあまり使うことのない言葉ですが、「分け隔てなく施す」という意味で使われる仏教用語で、大きく分けて次の3つがある、とされています。

財施(ざいせ)……お金や衣食などの物資を必要とする人に与えること
法施(ほうせ)……相手の心に安らぎを与えること、精神面で尽くすこと
無畏施(むいせ)……恐怖や不安などを取り除いて、安心させること

ついつい、施しは余裕ができたときに、という考えが働いてしまいますが、物がなくても、周りの人々に喜びを与える布施のやり方がある、というのです。
それが「無財の七施(むざいのななせ)」です。

眼施(げんせ
やさしい眼差(まなざ)しで人に接する

和顔悦色施(わげんえつじきせ)
にこやかな顔で接する

言辞施(ごんじせ)
やさしい言葉で接する

身施(しんせ)
自分の身体でできることを奉仕する

心施(しんせ)
他のために心をくばる

床座施(しょうざせ)
席や場所を譲る

房舎施(ぼうじゃせ)
自分の家を提供する

以上の7つです。
*禅宗と天台宗では、「七施」の読み方やその内容に違いがあります。ここでは天台宗のサイトに掲載されているものを引用しました。

身近な奉仕や実践することで、世の中の人々の心を和ませることができる、ということが説かれています。アタマやココロであれこれと考えているよりも、まずは身近なこと実践しないさい。そう優しく語りかけられている気がしてきます。

禅の言葉は難しい、とわからないままにしておかない

今回、この言葉を取り上げたのは、次のような思いがあったからです。

 知り合いの経営者の方が、社員向けにやっている人間学の勉強会に、ときどき参加させてもらっています。
 勉強会では、椅子禅をしたあとに、禅の講義が行われます。聴いているときは、貴重な教えに触れて、少しは見習わなくては、という気持ちになるのです。

  ところが、その後おさらいをしてみると、講師の解説がわかりやすいので耳に入ってきただけで、実はその意味するところをよくわかっていかなかった、と気づかされるのです。
 禅の言葉に触れたことで、気持ちが落ち着くどころか、混乱の渦にはまってしまう。さらによくないのは、わからないから、と放っておくことです。そうして、見事に忘れてしまう。

そこで改心。
間違っていてもいいから、書き留めておくことだけはしよう、と。

「布施」とは何か。『正法眼蔵』に学ぶ

さて。
「布施」とは何か。
道元禅師が『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』で、次のように説いています。

[訳文]
人々のためになることをするのに、真の智慧の働きとして四種の智慧がある。
一つには布施、
二つには愛語(あいご)、
三つには利行(りぎょう)、
四つには同事(どうじ)という智慧(ちえ)である。

これはすなわち菩薩が身を以て行うべき誓願である。
貪らないということも布施である、また自分のものではなくても、布施してはならないということはない。
わずかなものでは駄目だというのではなく、その働きのまことを見ることである。

そうであるから、たとえ一句一語の法でも布施をしたらよいので、この世やあの世の善き種となるのである。
たとえわずかなお金でも物でも布施をしたらよいので、この世やあの世の功徳の元となるのだ。
法も宝であるし、物質的なものも法と同じなのである。

他からの報いを貪らないで、自ら持てる財なり法なり他に分け与えることである。
 舟を置いたり橋をかけたりするのも布施そのものである。生計をたてるための仕事をなすことも布施でないことはないのである。
                           (以下略)

最後に原文です。

衆生を利益すというは四枚の般若あり、一者布施、二者愛語 、三者利行、四者同事 、是れ即ち薩.たの行願なり、其の布施というは貪らざるなり、 我が物に非ざれども布施を障えざる道理あり、其の物の軽きを嫌わず、其の功の実なるべきなり、然あれば即ち一句一偈の法をも布施すべし、 此生佗生の善種となる一銭一草の財をも布施すべし、此世佗世の善根を兆す、法も財なるべし、財も法なるべし、但彼が報謝を貪らず自らが力を頒つなり、 舟を置き橋を渡すも布施の檀度なり、治生産業固より布施に非ること無し。

道元禅師の み教え『修証義』
曹洞宗総合研究センター(宗研)特別研究員 丸山劫外氏解説 より引用




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