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清潔感と人間の傲慢
少し前のことだ。
街を歩いていると、道端に鳥の死骸が転がっていた。しかも何故か骨だけ。
街中であの状態は滅多に見ないから驚いた。
しかし考えてみれば、自然界ではそこら辺に死体が転がっている方が当たり前ではないか。白骨化した死骸にわざわざ驚く都市の人間の方が、自然界の中では不自然な存在ではないか。
ふと、そんなことを思ったのである。
綺麗な(ホワイト)社会の傲慢
思えば人間は、様々なものを隠蔽し、我々が見る社会を綺麗に見せている。死体は腐敗する前に片付けられ、日本では焼かれ、墓に埋められる。通常、現代人が放置された人間の死体が土に帰るまでを目にすることはない。
排泄も原則的に人目のある場所で行われない。これも人目から隔離され、見た目は綺麗に保たれている。ゴミもそうだ。
動物を捌くのも同じである。日本人で自炊する人なら、魚くらいは自分で捌く人もいるかもしれない。しかし生きた魚を〆ることはしないし、牛や豚、鳥などの家畜を殺し、捌いて肉にする過程を目にすることはない。スーパーで生肉は売られているが、光景としてそれは動物の死体と直接結びつくことはない。
我々が住むのは「汚い」を隠蔽された綺麗で清潔なホワイト社会なのだ。
それはもちろん、例えば感染症の予防など実理的な意味も持ってそうされているわけである。しかし、その環境が単なる公衆衛生に限らず、我々の精神面に及ぼす影響は決して少なくないのではないか。
私は思う。
人間はこの綺麗なホワイト社会に住むことで、無意識のうちに傲慢になったのではないかと。
自分の目に入るもの、感じるものから不快なものをどんどん排除しいった結果、感覚としてそれが当然になって、いつの間にか世界はそうあるべきだと勘違いし、この綺麗な表向きの社会だけで、世界が成立すると勘違いしてはいないだろうか。
あまつさえ、人間はこの綺麗な社会を完全にコントロールできるのだと、勘違いしてはいないか。
しかしその感覚は、きっと現実とはかけ離れているのだ。
最近の人間は、若いものから中年、高齢者まで、不快なものを排除する、不快なものから逃げる、それが当たり前になっているような気がする。それが過剰になっている気がする。
そして、そうやって環境をコントロールできるのだと思い込んでいるのではないかという気がするのだ。
――とんだ勘違いだ。
もちろん最近の奴らは辛抱が足りん、軟弱になったとかそういう話ではない。もっと、構造的な問題だ。
不快なものが無い社会というのは、不快なものを表出されることを許さない社会だ。
権利と義務は表裏一体なのである。
不快にならない権利を享受するために、不快にさせない義務を負う。それが今のホワイト社会である。
そして、不快なものを排除していったはずのこの社会は、実はとても息苦しいのではないか。
そしてそれは、本来の自然とかけ離れた、歪んだ認知を無意識のうちに、全人類に感覚的に刷り込んでいるからではないか。
不快やストレスを受けない権利・与えない義務
今の社会の傾向として、不快要因を目の前から排除しようとする傾向がある。「ミュート」「ブロック」という考え方だ。
しかし、おそらくそんなことをしても長期的に幸福度は上がらない。なぜなら幸福とは相対的なものであり、人間はストレス要因を除去してもストレスの基準が変わってさらにストレスに過敏になるだけなのだ。
さらに、こうした環境のクリーン化、ホワイト化は、人間が受けるストレスを大きく偏らせる。
社会がホワイト化することで、物理的なストレス、不快感は確かに減るが、一方で精神的ストレスは減るどころか増える傾向にある。
それは、権利が拡大すると同時に義務も拡大するからである。
人間は「人権」という概念のもとに「ストレスを受けない権利」を拡大してきたが、それは同時に「相手にストレスを与えない義務」も拡大した。コミュニケーションにはより一層の配慮が必要になり、それができない人間は社会から弾き出されるようになっていった。そのため、生きていくだけでも気を遣うべきところがどんどん増えていった。
個人は社会に様々なものを享受できるようになったが、それと同時に社会が個人に求めるものも増えた。社会と個人の相互依存関係は大きくなり、お互いを縛るようになったのである。
クリーンな環境を綺麗に維持し続けるに労力が必要なのだ。
本来自分が心地よくするためにそうしているはずなのに、そう思い込んでいるが、しかし実際は疲弊している。
毎日綺麗な部屋に寝泊まりできるとしても、その代償として毎日18時間はたらき、2時間しか睡眠が許されないとしたから、その生活は果たして幸福だろうか?
それを幸福だと勘違いしている限り、私は何度でも「人間は傲慢だ」と言い続ける。
こんなことをしているか、2000年経っても人間の労働時間は減らないのである。
人間はもっと、不快やストレスとうまく付き合い、共存していく術を身につけるべきだと思う。
不快やストレス、理不尽との共存
しかし、では不快との共存とはどうするのか? という話になる。
ストレスに対し、我慢するのか? ただひたすら歯を食いしばって耐えるのか?
違う。
ストレスとの正しい共存とは、自分の好きなストレスを選ぶことである。
生きるのが苦しいのは、ストレスがあるからではない。受けるストレスを自分の意志で選べないからである。
だがそれと同時に、世の中はままならないものであり、完全に自分の想い通りにコントロールすることはできない。ゆえに、自分で選べないストレスを受けること、理不尽な出来事に振り回されることも受け入れなければならない。
しかしこれは心掛けの問題でもある。
自分の人生、生活を全てコントロールできるはずという思い込みをまず捨てなければならない。そんなことは不可能だし、不可能で当然だと。
それは自分自身に対してもそうだ。ままならない自分自身の感情、体力、知力……コントロールできない自分自身も受け入れる必要がある。
大人なら自分を自分でコントロールできて当然だ、などというのは大いなる勘違いである。「社会人」という概念はそのようなニュアンスを含んでいるが、それこそが人間の傲慢にほかならない。
無理なものは無理。
自然の摂理を認めなければ、何をどうしたって人間は不幸なのである。
もちろん努力を放棄しろということではない。
むしろ、自分の無理を受け入れてこそ、正しい努力ができるのだと信じている。
そうしてままならない自分、ままならない世の中を受け入れて、それでも少しずつ自分の好きなストレスを選択していく……そうすることで、より良い人生を送ることができるのではないか。
「何でも今すぐコントロールできる」そんな傲慢を捨てて謙虚になってこそ、人間は初めて真の意味で自由になるのだと思うのだ。