「誰が言ったか」「何を言ったか」をどう捉えるか?
「誰が言ったか」「何を言ったか」について。
わたしの解釈による結論から言うと、どっちも正しいし間違ってもいます。
それに意味や価値を持つのは、
①対象者の発言(の意図)が個人の価値観と概ね一致
②周りが揃って同じ反応をしている
②についてはこうも解釈できます。
その反応をしている周りの中にいる誰かひとりひとりが、自分の頭で考えず雰囲気に流されて意味付けていること。
雰囲気だけで物事が決まり、その環境下においては常識となる。
例え誰かが言った"何"の中身が非現実的なものでも、その世界ではあって当たり前という認識。
そんな、特定の何かが通用しやすい条件は、
言う誰かがほぼ関わりのない赤の他人ではなく、
既に知っている仲間や友人などがほとんどです。
言い換えれば、類は友を呼ぶということ。
①については、この記事を書いたわたしも当事者のひとりです。
例えば、noteの有料記事を購入する際はフォロワーさんに限定していること。
そのフォロワーさんとわたしが生きた過去と、
それに基づく価値観に類似性を感じる点。
このつながりが、他人という鏡に映される自分に認られたように思える。
つまり、購入を決める主な理由は、
本能である承認欲求を満たせる可能性を感じるためです。(あと、自分の人生に役立ちそうな情報を知りたいのもひとつ)
言い換えると、失敗のリスクが少ないことでもあるので、この場合は「何を」以上に「誰が」を優先して購入ボタンを押します。
(話を戻して)この「誰が言ったか」「何を言ったか」
そもそもこれらは何を基準にした正しさなのか?
対象となる言葉の遥か向こうにある意図を探り当てるには、なるべく冷静な状態を作り、視点を高くすることが重要。
この人間にしか持たない(であろう)能力を最大化させるには、やはり身を置く環境が自分に合うか。
そう、継続して成長できる環境に出逢えるか。
結局のところ、わたしたちは"環境"の生き物です。
それぞれの環境に移動するたびに、物事の捉え方が変わり、さらに生き方まで変わるのだから、単純に不思議な生き物です。
続く変化を通して、物事をより良い状態でより良い視界で見れる。それは「誰が…」「何を…」に対しても同じこと。
わたしはこの続く変化を、楽苦しい感覚で味わい尽くすつもりです😼