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”普通幻想”からの脱却
普通=みんなと同じ
誰かと同じ考えや感覚・同じ言葉を共有することにより、心から安心できる。
以前はこのように解釈しました。
普通という概念は人それぞれ。
当時のわたしは、本来の自分を抑圧する何者かになろうとしたのです。
自分がない自覚は既にありました。
ならば、何者かになってその”ない部分”をすべて埋めること。
こうすればいずれ解決できるのではと思い、一縷の望みをかけました。
しかし何者かになろうとするだけ、ストレスは雪だるま式に膨れ上がる。
表明的に普通の会話ができるようになっても、違和感が楽しいを覆い尽くす。
それまで信じた普通という概念が幻想であると気づいたのは、以前通院したカウンセリングや(noteも含めた)環境移動で思考や感情を言語化してからのことです。
実際ないものに自分から合わせに行った。
それにも気づくと、バカバカしく思うと同時に安心もしました。
普通というのは、社会の正解ではなく個人の正解。
その個人ひとりひとりが偶然同じ場所に集まり、同じ共通言語でひとつの空気を醸成したとき、感覚的に社会の正解と自動認識。
当時を振り返ると、自分で自分を振り回していたんだとわかります。
いまのわたしは普通ではなく、確かな個性を持つ唯一無二の人間。
時には摩擦が起き、時には融合が起こる。
さらに、”新しい何か”という化学反応も。
みんなが歩む王道とは別の道を歩むわたし。
それでいいと思えるいまは幸せです。
王道にはない特殊な経験という無形の価値を積み重ねたことは、自分への信頼を育てる理由になっています。
普通に合わせることは、誰かの”都合の良い人間”となり、やがて”どうでもいい人間”になる。
自分への信頼を育ててからは、そのような未来が見えるようにもなりました。
あってはならない違いは裁きも対象になるけど、
”あってもいい違い”に対しては寛容になること。
その寛容さを広げることが、今後のわたしたちにとって大きな課題ではないかと、個人的な見方ですがそう考えます。
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