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人は誰もが死んでいくのに、どうして生きていくのか

精神科医で哲学者のフランクルが、この疑問を抱いたのは4歳のときだったといいます。
天才肌の人は、幼いころから凡人とはちがうなあと思わずにはいられないのですが、彼のすごいところは、この素朴で究極的な問いをずっと持ち続けたことにあります。

ナチスの手によって、約2年半の強制収容所生活を強いられたのち、奇跡的に生還したフランクルは、かねてから世に出していたロゴセラピー(意味の哲学)が極限状態の収容所でも立証できたとして、わずかな期間で「夜と霧」を発刊しました。

この本は世界中で読まれることになるのですが、彼が4歳のときに抱いた彼なりの答えは、人生の意味は人間を超越したところからやってくるということでした。

私たちは、自分の人生にどんな意味があるのかと考えますが、そうではなく、人生の意味は人生の方から問いかけてくるものであると考えたのです。彼はこの発想をコペルニクス的転回によって得たと述べています。

彼のいう人間を超越したものとは、かならずしも神ではありません。神を信じる者は、神だと考えても構わないけれども、神を信じない者にとっても同じように人生はあなたに絶えず問いかけていると言います。

私たちは、良心に従ってそのミッションを遂行すること、それが人生の意味であるということです。

人は必ず死んでいくのに、なぜ生きるのか。
それは、人間が自分のために生きているのではなく、人生のために生きる存在だからです。
生まれた時から、毎日、毎時間、その一瞬一瞬に次々と人生は私たちにミッションを投げかけてくるのです。
だからこそ生きる意味があるのです。

もし、自分が生きる意味を見つけられるのだとしたら、見つけられないと感じた時、そこに在るのは絶望だけです。
しかし、毎日何百人もの人間が命を落とす収容所の中にあっても、いまここで、人として何をすべきかという問いは必ず人生から送られてくるのです。

その問いはいつも自分にとって肯定的な問いです。
自分を蔑むような問いは人生からは送られてきません。
もし、生きることに疲れていたとしたら、それは、人生からのミッションを良心という耳で聴こうとしないで、自分で生きる意味を探そうとしているからかもしれないのです。

フランクルは、すべての人間に人生からの肯定的な問いを受けとる能力があると断言します。

自ら人生の意味を作り上げようとするのは、じつは最も危険な行為なのかもしれないのです。

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