【歴史小説】花、散りなばと 3/6【加筆修正・リマスター版】
この小説について
この度、kindleで初の作品集『室町・戦国三都小説集』を発売させていただきました!
それに当たり、一番古い作品だった「花、散りなばと」を一部加筆修正いたしました。
(Kindle、ペーパーバックともに、リマスターの反映は現在発売中の第2版からになっています)
こちらの「花、散りなばと」は、現在連載中の歴史小説「天昇る火柱」の前日譚に当たっています。
実に三十年も昔の話になります。
トウの立った古市胤栄、澄胤の兄弟が、まだかわいらしい童の姿で登場しています。
そして二人の父である、中世大和の小覇王・古市胤仙も。
「天昇る火柱」とあわせて、ぜひ当時の世界へタイムスリップしてみてください!
どうぞよろしくお願いいたします!
本編(3)
三
「医師の話では、春藤丸殿はもはや長くはあるまいと」
「何を馬鹿な」
経覚は、簀子縁にうずくまる畑経胤を怒鳴りつけ、手持ちの中啓を力任せに投げつけた。扇の骨が敷居にぶつかって跳ね上がり、襖障子に張られた薄紙を突き破った。
「腹の所労不快、と初めに聞いてから、まだ二日も経っておらんぞ。こんなにも早く、病が篤くなってたまるものか」
灯皿の小さな炎と、納戸構に投げかけられた大きな影が、呼び合うように揺れている。相手は何も答えず、黙ったまま頭を垂れていた。
いくら声を荒らげようと、ただ言伝するだけの従者にはどうしようもない。そんなことはわかっている。それでも、せいぜい大声を発さないではいられなかった。
予兆など、何もなかったと思える。ほんの三日前にもこの迎福寺で、連歌の手ほどきをしてやっていたのだ。館へ帰る前には、小豆の蜜漬けを振る舞ってやった。
ただ蒸し暑い長雨の季節で、朝夕はやけに冷え込むこともあり、瘧でも患ってしまったのだろうか。
だが、事がそこまで差し迫っているのであれば、おのれにできることはもはや一つしかない。
経覚は、秘蔵の白朮を従者の手に託すと、
「明朝まで、何人も入れてはならぬ」
と固く言い置いた。
金堂へ入って蔀戸を閉め切り、本尊の前に端座すると、香を焚き、一心不乱に仁王経を唱えて修法した。
春藤丸は、ようやっと十一の年である。その素質は群を抜き、大成すれば傑出した人物にもなれたであろう。だがそれは決して、胤仙のように奸雄めいた姿ではなかったはずだ。
父が望む、歴史を転覆させるような野心をついぞ持たないとしたら、春藤丸は一体どのような道を歩んでいけたのだろうか。
夜は永劫のように長く、静かな呼吸の一つ一つが、経文の一文字一文字を時へ刻みつけてゆく。
縁側で咳払いがして、庭から鳥の鳴き声が聞こえた。瞼を上げると、灯明の芯がずいぶん短くなり、下ろした戸の隙間から明るみが覗いていた。いつの間にか朝が来ていたらしい。
縁側へ出ると、目の下に隈を拵えた畑経胤が控えていた。昨晩と同じ直垂姿である。
「容態はいかがじゃ」
「依然として厳しく。汗が一滴も出ず、激しく喘いでおられます。粉薬も、無理に唇の端から流し込むような有様で」
「さようか」
経覚は鼻の孔を広げて嘆息した。
「馬場につないである月毛の馬を、神馬として惣社へ奉納せよ。祈祷のため折紙で二百疋を添えてな」
「しかしあれは、かつて若殿より献上された、ご愛蔵の一頭では」
「その春藤丸がいなくなってしまっては、何の甲斐もない。そなたは、人間の影を馬に追い求めよと言うのか」
従者は首肯して袴の膝を伸ばし、音もなく立ち上がった。
「少し休む。そなたも折を見て下がれ」
一礼して境内の敷石を踏み、平唐門の外へ出ていった。
経覚は古具足の離れでうつらうつらしていたが、蒸し暑さで深く眠ることはできなかった。葬送の列のように蝉が鳴いていた。
申二つ時、胤仙が自ら来たというので、身なりを整えて書院で出迎えた。
惣領は鈍色の袍裳に当帯を締めたばかりで、自慢の虎髭も乱れ放題に跳ね回っていた。大まなこが血走って黄色く濁っている。やはりほとんど眠れていないのであろう。
「春藤の所労火急とのことで、不憫限りない。依然として悪いか」
「は、難儀かと」
心労の窮まった様子で頭を下げた。髪もきれいに剃られておらず、点々とまだらになっている。
「先年、今春と不幸が続いているのは、我が身に降りかかった仏罰ではないかと、骨身に沁みております」
「ふむ」
経覚は低くうなり、片方の眉を持ち上げてみせた。
体調を崩しがちだった胤仙の妻、春藤丸の母は、昨年の夏に亡くなっていた。さらには今年の二月に、筒井方との合戦で胤仙の弟が討ち死にしていた。古市にとっては、苦しい季節が続いているのだ。
「ずいぶん殊勝なことだが、本心よりの言葉か」
「無論」
「ならば、今すぐ願を立てることだ。金輪際、奈良へ手出しはせぬ。馬借をけしかけて討ち入らせるなどもっての外じゃ。村々を焼くこともなければ、段銭を掛けることもしない。息子の命が救われれば、必ずそれを果たすと神仏へ誓うのだ」
「ご門跡は、それでよろしいのですか」
「なに」
「我らが筒井を打ち倒せなくなっても、それで構わぬと」
試すような言いぶりで、咄嗟に頭へ血が上りかけた。だが死にかけている童子のためにも、今は言い争っている場合ではないと思い直し、どうにか腹へ収めた。
「衆徒同士の諍いから全て手を引き、膝を屈せというわけではない。合戦ならば、筒井の本貫へ仕掛ければよかろう。南都と寺門を戦火に巻き込むな、と言っているのだ」
「ご都合の良い話です。ただ筒井の田舎にばかり攻め込んだとて、一体何になりましょう。相手が官符棟梁を称している以上は、時に奈良が戦場になることもやむを得ますまい」
「ならば、願は立てぬか。春藤丸が死んでもよいのか」
「願は立て申す。すぐに起請文を返すつもりでおります。ただ万が一でもご門跡のお心に反してはならぬと、前もってお伺いに参った次第」
「わしを見くびるなよ」
経覚は一喝した。胤仙は目を伏せて小さくかぶりを振ると、思い切りよくがばりと立ち上がった。
「どちらにしても、ここで我が夢の終わりですな」
見上げると、太鼓梁を背にした寂しい笑みがあった。振り返れば長いつきあいではあるが、今初めて目にするような面差しだと思った。
その夜も、経覚は一睡もせず金堂で修法を行った。暁闇の時分になって、蔀の外から、
「門主様」
と呼ぶ声がした。畑経胤である。
ふらふらと立ってゆき、妻戸を開けてやった。相手は疲れ切った様子ではあるものの、妙に晴れがましい顔つきでこちらを見上げていた。
「いかがした」
「春藤丸殿が、持ち直されました。峠は越えたとの見立てです」
「まことか」
経覚は腰が抜け、その場にへたり込んでしまった。膝が柔らかくなって力が入らない。直綴の内側が変に生温かい心地がして、腿の裏で触ってみると、しとどに失禁していた。
本当に父の立願が、たちどころの効験を顕したのだろうか。南都を護持する神仏の怒りが、もはや解けたと見てもよいのだろうか。
「いや、まだまだ油断はできん。春藤が明らかに回復するまで、わしは毎晩でも修法を続けるぞ」
「はっ。ですが、どうぞご自愛ください」
従者は笑みを含むと、頭の重さに負けたように平伏した。
十日もすると、春藤丸は自分で起き上がり、朝餉を口にすることもできるようになった。
季節は移り、すっかり体調の戻った春藤丸は、快癒の礼参りも兼ねて、伊勢神宮へ参詣することになった。道連れは祖母と妹である。
朝露が日の光を受け初める時分に、出立の挨拶とて、ひとりで迎福寺を訪れてきた。経覚は離れの濡縁まで出て迎えた。雲の切れ間から鋭く注ぐ朝日が瞼に染みた。
春藤丸は髪を唐輪に結い、緋色の小袖に脛巾を巻いて、綾藺笠を手に持っていた。二日ばかり精進屋へ入っていたためもあろうか、文字通り憑物の落ちたような、透き通り過ぎるほどの目つきをしていた。
「しばらくの間、お暇をいただきに上がりました」
「やはり痩せたの」
すっかり頬の膨らみが削げ、細面になっている。立ち姿も梢のように薄い。経覚は胸を衝かれるような思いで見下ろしていた。
「が、そなたの命は救われた。今後は、神仏に選ばれた者であると深く自覚しながら、生きてゆかねばならん」
その言葉を受け、春藤丸は体を折らんばかりに大きくうなずいた。
「いつ帰る」
「今月の末には」
「さようか。足が疲れぬようにしばしば休めよ。夕暮れ時の峠にはよう気をつけ、息災での」
傍らの畑経胤を促して、道中の虫よけのため、飾り紐を総角に結んだ垂れ衣を三匹手渡した。
「まことにありがとうございます」
今度はぎこちなく頭を下げてみせる。そのまま立ち去りかけたが、敷石を数歩進んでからまた振り返った。
「門跡様。わたくしの病の平癒のため、日夜ご祈祷を行っていただいたこと、心からお礼を申し上げます」
「構わん。わしは、そなたのためなら何だってする。例の月毛は、惣社へくれてやることになったがの」
年の離れた二人は、よく似た笑い声を揃えた。
それを囃し立てる横笛のように、黄鶲の声が舞っていた。
~(4)へ続く
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