「この世の空しさ」を感じることさえ出来ない人々、Immigrant Song、裸足の少年たちの向かう先は、ケロイド的、
八月二六日
午前十一時五七分。ぴよっちサブレ四枚、紅茶。休館日。窓を開けると猛烈に生ぬるい空気。「夏はようやく熟しつつあった」(開高健『夏の闇』)。未開封のクール系入浴剤があるのでまだ夏は終わらないほうがいいナ。もうすでに便意があるんだ。俺のばあい周期的に硬くなったり柔らかくなったりする。いまはちょっと硬いんだ。雲古してくるわ。出た出た。今日はちゃんと出た。写真をアップしたいくらい。ジムビームがもう空になりそうなんだ。酒は週一日だけにしたほうがいいかもしれない。休館日の前日だけとか。いままで何度もそう言ってきたけど実行には一度も移せていない。酒飲みにとって酒を飲む理由を探すことほど簡単なことはない。酒を飲まずに生きられるほど俺は野暮じゃない、というだけで理由としては十分。元TOKIOの山口氏がさいきんいろんなところで懺悔っぽいことを語っているようだけど頼むから酒を悪者みたいに言うことだけはよしてくれよ。何かをしでかしたあとでそれを酒のせいみたいに言うなんて酒飲みの風上にも置けない奴だ。「飲酒運転」という出来事で悪いのは酒を飲んで運転する奴であって酒ではない。「通り魔殺人」という出来事で悪いのはナイフを振り回す奴であってナイフではない。当り前だね。小学二年生でもわかる話。今日はこのあとどうしようか。先週はぜんぶ通ったからな。もう俺まじで勤勉。こんな勤勉だから酒くらい毎晩飲んでもいいだろ。ほら、こんなふうに肯定するの。「今日は頑張ったからこれくらいいいだろ」的な論理。どこまでも自分に都合のいい論理。脳の報酬系に問題があるのは分かっている(痴漢常習犯においても似たような論理パターンが見られることをいぜん斎藤章佳『男が痴漢になる理由』で知った)。もっとも今日では脳の報酬系に問題のない人間を探すほうが難しいかもしれない。どうしても俺はスマホ使用者とスマホとの間に凡庸なエロス的関係を見てしまうんだよな。この実存的虚しさを満たしてくれる何かをつねに求めている、なんてそんな類のものではない。たいていの人間は虚しさなんかそこまで問題にはしていない。少なくとも「あ、いま虚しいな」なんて立ち止まらない。いまさら「生の虚しさ」だとか言って深刻ぶってみても滑稽なだけ。そんなのは才能のない小説家志望の青年にまかせておけばいい。そもそも虚しさを虚しさとして感じること自体がだんだん難しくなっている。ためしに友人なんかに「なんかまいにち虚しいよね」とか言ってみればいい。相手はきっとキョトンとするだろう。心療内科に行くよう勧めてくるかもしれない。
その点で「我々」は虚しさの完成形のなかにいると言ってもいい。でもこれは嘆くべきことではない。「我々」は感性における何らかの過渡期にいるのだ。人間の自己超越の予感がする。飯食うか。麻婆豆腐。ハンガリーのトカイワインが飲みたくてしようがないんだ。専門店に行かないと買えないか。やまやには多分あるだろう。あっても二千円はしそうだ。一日で飲み干してしまうようなものに今の俺は二千円も出したくない。二千円もあれば、ちくま学芸文庫から出ているたいていの本は買える。岩波文庫の薄いやつなら二冊買えるかもしれない。やはりもう酒はやめようか。学業に専念しようか。俺の中の刹那主義が「否」と叫びたがっている。セナ様に抱かれたい。セナ様になら唐辛子味噌を目に擦り込まれても構わない。それで失明したっていい。恋は盲目なんだから。《Love is blind》。コイキングの復讐。人間は地球の恥毛である。ザコどもは裸で生きろ。レッド・ツェッペリンが聞きたい。