選挙より革命、革命より絶滅、絶滅より唐辛子
三月二日。
もうすでに三月になっている。やがて花粉地獄の季節だ。三月は「旧暦」では弥生という。「旧暦」とはそもそも何かを知らない人が多い。これについて国立天文台のホームページがとても分かりやすく説明してくれている。日本において「太陽暦」(グレゴリオ暦)が採用されたのは一八七三年(明治六年)で、その改暦以前は、月の満ち欠けを基準に太陽の運行具合を加味して作られた「太陰太陽暦」が一般的だった。陰暦太陽暦といっても歴史的にはその計算方法は様々だけど、げんざい日本で「旧暦」と呼ばれているものはたいてい「天保暦」のことを指す。天保十三年(一八四二年)に採用が決定し、弘化元年(一八四四年)から明治五年(一八七二年)まで使われた「最後の太陰太陽暦」である。これは幕府からの命を受け天文方渋沢景佑らが作った。新しい暦をわざわざ作らせたのは従来の「寛政暦(一七九八年~一八四二年)」に誤差が生じたためである。
だいたいにおいて太陰太陽暦では、新月の見えた日を月のはじめ(1日)とし、それから2日、3日、4日、5日と続く。新月から新月の間隔は平均約29.5日であり、1年つまり12か月では354日になる。太陽暦の1年よりも11日少なく、それを放置しておくとだんだん季節とのずれが甚だしくなってくる。だから太陰太陽暦では、そのずれが1か月分に近づいてくると「閏月」というものを挿入することで、まとめて修正したのだ。なんともワイルドだぜ。たとえば明治3年には10月の後に閏10月というのが入れられた。こんな不細工な調整法がいまこの時代に採用されていなくてよかったです。太陽暦においても季節と暦のずれは発生し、その補正法も存在する。「閏日」つまり2月29日の挿入がそれだ。よく「4年に1度」と理解されているが、それについての細かい解説はまた別の日に。
スラヴォイ・ジジェク『否定的なもののもとへの滞留』(筑摩書房)を読む。ジジェクの著作は膨大で、しばしば毎回同じことを繰り返していると野次られる。「言説の金太郎飴」だとか言われて。賞味期限の短かそうな「時評」的書きものも多い。さいきんはウェブサイトからの引用も目立つし、甚だしきに至ってはウィキペディアからの直接引用も辞さない。お前は素人ライターか、と突っ込みたくもなる。もう年だからいちいち事典を本棚から取り出したり文献を渉猟したりする体力がないのかも知れない。かくも「粗製濫造」なのに新作が出るたびつい読んでしまうスラヴォイファンが世界中に数多くいる。これは何故だろう。私だってスラヴォイの著作を見付ければたいてい最後まで読んでしまう。そのダイナミックかつトリッキーなその論じっ振りに魅せられてしまう(ああこのジョークまた言ってる、という時さえ)。読みながら「知性が活発化」するのが分かるのだ。この言い方は内田樹がフロイトなどの「ユダヤ的知性」を論じる際に使ったもので、私はこれをかなり気に入っている。優れた知性人の思考を辿るのはひじょうに心地よいことで、この知的躍動はおよそ読書以外では味わえない。この「贅沢な趣味」と縁のない人たちが気の毒でしかたありません。
本書では、ラカンの「大他者の欠如」「対象a」の議論がヘーゲルやカントへと手際よく豪胆に関連付けられている。参照対象はあいかわらず広域に及び、ヒッチコックなどの「古典映画」はもちろん、途中からはモーツァルトのオペラからワーグナの楽劇まで縦横無尽に論じられる。ヘーゲルすなわち空中戦哲学者という勝手なイメージがあったが、それも見直す必要があるかもしれない。食わず嫌いなのか私はヘーゲルをこれまで一冊も読んだことがない。年内にはみっちりと付き合おう。まずは『精神現象学』あたりか。本については私は有言実行派なのだ。