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「親切だけど愚鈍で話が通じない人物より性悪だけど犀利で話の通じる人物のほうが友達としてはいいね」とあのとき処女だった君は言った、

九月八日

《存在》と《ある》はわれわれにとって、一種独特な無規定性において思惟されながら、同時に或る内容的充実において経験される。《存在》のこの二重の相貌こそおそらくはそれの本質を窺う手がかりへとわれわれを導くであろう。

マルティン・ハイデッガー『ニーチェⅡ ヨーロッパのニヒリズム』空虚と豊饒としての存在(細谷貞夫・他訳 平凡社)

午前十一時五四分。青汁、紅茶、うずら。気分上々ではないが下々でもない。安酒は宿酔になりやすい、というのはオイラの偏見か。斎藤元彦兵庫県知事の話す姿を見ていると外面だけは妙にいい暴力夫を連想してしまう。「あんなに責められてかわいそう」とか言い出す政治音痴の同情馬鹿がそろそろ湧いてくるぞ。昨夜うつのみや小立野店で「古書市」が催されていたので久しぶりに一冊買った。R・D・レイン/A・エスターソン『狂気と家族』。300円。以前もたぶん読んだけどもう一度読みたい。何度でも言うけど読書とは再読のこと。しかし狂気という単語と家族という単語はなぜこう相性がいいんだろうね。近頃は家族というものが不潔極まる呪縛圏にしか思えない。俺、両親に聞きたいもんね。「なんで君たちは母親や父親になろうとしたの?」って。「知性に乏しい上に趣味が悪いから」というのが「正しい答え」なのだろうけど。いずれにせよ自ら母親や父親になりたがるような人間とはあまりお近づきにはなりたくないね。僕は「変な人」は好きなんだけど「凡庸な狂人」は好きではないんだ。内省癖のない「三児の父」と付き合うより内省癖のある放火魔と付き合うほうがずっとマシだ。とにかく愚鈍な奴って嫌。愚鈍でありながらそれを恥じようとしない奴はもっと嫌。考えるためだけに存在している人間において愚鈍であり続けることは一つの罪だと思う。愚鈍罪。あまりこういうことを言う人はいないけど。ところでアンチョビ(カタクチイワシの塩漬け)をキャベツと一緒に炒めると美味しいよ。アンチョビはたいてい塩辛いので醤油を加えたりする必要はない。大岡信『第三 折々のうた』に、

大雷雨鬱王と会うあさの夢

というのがあって頗る気に入ったよ。赤尾兜子という人の作。鬱王という言葉が鮮烈で強烈。一時期の俺は毎朝こいつと対面していた。雲古が出そうで出ない。自分には便秘恐怖があるものだから少しでも硬くなると過度に身構えてしまう。便秘になるくらいなら下痢が続くほうがはるかに好ましい。そんなことを書いてたら便意が強くなってきた。雲古してくる。出た。でもまだ全部は出てないね。一度に全部出る日なんかほとんどない。「考える糞尿製造機」なんて惨めすぎる。「考えない糞尿製造機」は考えないが故に自分の惨めさを死ぬまで理解できない。真に惨めなのはどっちなのか、なんて愚問でしかない。

人間は明らかに考えるために作られている。それが人間の尊厳のすべて、人間の価値のすべてである。

『パンセ』(田辺保・訳 角川書店)

と道破したパスカルはまったく正しいわ。もう何も付け加えることがないくらい。しかし今更だけど堀江貴文の体制順応ぶりはすごい。現代の「太鼓持ち」ってのはああいうふうじゃないとダメなんだろうな。彼って、鹿島茂の言葉を借りるなら、「ドーダの人」なんだよね。ねんじゅう「ドーダ、マイッタか!」と叫んでいる中年男。痛々しいったらありゃしない。やっぱほとんどの人間って三十歳くらいで死んだ方がいいわ。それ以降は老残でしかない。堀江流の「俺の生き方を見ろ商法」はもういまは流行らないだろうね。もう昼飯にしますよ。キャベツ炒めかな。魚の缶詰はぜんぶ無くなってしまった。豆もなくなったら俺は「不本意なベジタリアン」とならざるを得ない。それはそれでいいんだけど。食うより飲む方が好きだから。腹が減るたび動物であることの惨めさを痛感する。世界はきょうも美しい。解剖台上のビンラディンの大腿骨と昭和天皇の恥骨の偶然の出会いのように美しい。東京の空には三島由紀夫の生首が飛び交っている。ヤッターマン絞殺事件の真相。

【備忘】8500円

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