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守銭奴紳士、「なんでバカのくせに勉強しないの?」は禁句、

八月二八日

狂人、犯罪者、異常者たちですら新設都市、すなわち近代社会の合理性のなかに受け入れ構造を見いだすことができるのに、死という機能だけが計画にも入れられず、位置づけもされない。本当のところは、人びとは死をどう扱っていいのかわからなくなっているのだ。なぜなら今日では死者であることは正常ではないからである。それこそ新しい事実である。死者であることは考えようもない異常なことであって、これに比べればほかのすべてのことは無害なものだ。死とはひとつの犯罪であり、癒しがたい異常なのである。

ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』Ⅰ 死者の売渡し(今村仁司/塚原史・訳 筑摩書房)[原文傍点→太字]

午後十二時十六分。紅茶、わさビーフ。いつも紅茶に入れている白い油が無くなってしまった。あれを入れないとお茶酔いすることがあるんだよ。いまげんざい俺に二五〇〇円を借りている隣のジジイが二〇〇〇円貸してほしいと昨夜訪ねてきた。「深い仲」だった元水商売の女がガンで死んだ、とか言ってたけど虚言癖のあるジジイのいうことだから話半分で聞いた。しかし借金癖と虚言癖ってもうマジで嫌な組み合わせだわ。寂しいのは分かるけどそもそも「人生」とは寂しいものなんだよ。賢い犬や猫でさえそう感じているはずだ。七十過ぎの老人ならそのくらいのことは骨身で知っていてくれ。彼を見ていると、貧乏な独居老人だから惨めなのではなくて読書の快楽を知らない独居老人だから惨めなのだ、と思えてくる。歩いて五分以内のところに巨大な図書館があるのにほとんど行ってないみたいだから。デヴィッド・グレーバーの本を読んでいると、ごくありふれた表現ではあるけれど、「目から鱗」の連続だ。読めるものはぜんぶ隅々まで読んだ方がいい。この「世界」がこんなにも不快な理由の一端が掴める。こんなにセクシーでラディカルな学者が早世してしまったことはかえすがえす残念だ。俺は彼から「反体制の作法」を学びつつある。きょうはもう書くことがない。ノートに抜き書きした文章を並べてみようか。雑なコメントを付けながら。

ポール・ボルカ―元FRB議長(カーターおよびレーガン政権下)が、過去二五年間に人々に恩恵をもたらした「金融イノベーション」はATMだけだと述べたとき、かれは現実を端的に把握していた。われわれは、究極的には司法や刑務所および警察の権力と、企業に金儲けの権力を与える政府の姿勢とに実は支えられた、精密な搾取システムを論じていたのである。

『デモクラシー・プロジェクト――オキュパイ運動・直接民主主義・集合的想像力』第Ⅱ章    なぜうまくいったのか(木下ちがや・他訳 航思社)

むかし銀行で「振込手数料」なるものを支払わされるたび発狂しそうになっていた。しかも五円とか十円とかならまだ納得できるけれどしばしば四百円以上も支払わされる。自分の金を動かすだけなのになんでだよと「まともな人」なら思うはず。インターネットバンキングなんかがもっと普及し、店舗としての銀行が一切なくなっても、銀行システムのようなものはどこまでも我々に付いてくるだろう。我々はもうすでに巧妙な金融搾取システムに絡め取られ過ぎている。それにいちいち不快を感じることがないくらいに。

米ドルとは、本質的には循環する政府債務である。あるいはより具体的にいえば、戦債のことである。このことは少なくとも一六九四年のイングランド銀行創設にまでさかのぼる中央銀行制度の変わらぬ真実である。アメリカの国債の起源は独立戦争の債務であり、初期にはその戦費を貨幣化するか否かをめぐり大きな議論が起こった。

同上

「武器を作り続けなければ国が持たない」という構造。日本がアメリカ兵器を爆買いしているのは周知の事実。アメリカにおける軍需産業は他国における軍需産業とは重みも役割も違う。もはやそれは一つの体制なのだ。その歴史を辿るだけでも一筋縄ではいかない。

かつて、議員に影響力を行使しようとカネを渡すことが「賄賂」とみなされ、違法とされた時代があった。それはカネを詰めたカバンを運び、特別な依頼――土地区画法の変更、建築契約の決定、犯罪事件の起訴取り下げ等々――をする裏稼業が蔓延したからだ。今では、賄賂を要求することには「資金調達」、贈収賄そのものには「ロビー活動」という新たな名称がつけられている。

同上

日本にも政治献金という「合法的な賄賂」がある。自民党総裁選のお祭り騒ぎで統一教会問題も裏金問題も思惑通り曖昧化されているけれども。「政権を手放さないためなら何でもあり」というのが今の自由民主党の唯一の党是なのだ。ここまで不可逆的に劣化した政党を(慣習とはいえ)支持し続ける人たちの脳もたぶん救いがたいほどに劣化している。長時間議論したい人がだんだん少なくなっているのもおそらくそのせいだ。もちろん俺の脳もちゃんと劣化してるよ。だってなんの腐臭も感じないんだから。

政府の債務がもたらす脅威から子どもたちを救うために「犠牲を分かち合う」という緊縮のレトリックはシニカルな嘘かもしれないし、何よりもまさに一%にさらなる富を分配する方便でしかない。だがこのレトリックは、少なくとも普通の人々の持つある気高さを褒め称えている。多くのアメリカ人にとって、「コミュニティ」と呼ぶに値するようなものが周囲に存在しないとき、犠牲の分かち合いは少なくとも他者のためにできる何かではあるのだ。

同上[原文傍点→太字]

こんなアイロニカルな文章を書かせたらグレーバーの右に出る者はいない。アメリカのことを言ってるのにいちいち日本にも当てはまるから面白いね。やはり我々は「同質化の世紀」を生きているのかもしれない。私は「国の借金が大変だ」という類の論法に接するたび眉に唾を付けるようにしている。「左派系」の経済学者も政府系(体制側)の経済学者も同じくらい緊縮財政を説きたがる。けっきょくは「犠牲の分かち合い」を人々に求めたがる。たいていの人々は財政学には疎いので「まあ仕方ないよね」という感じになる。この「まあ仕方ないよね」にうまく付け込めば社会保障費でも何でも大胆に削ることが出来るだろう。国を主語にした論法には人を思考停止させる力があるらしい。財務省や政府からすれば「生活者」など存在しない、という基本認識だけは手放さないようにしなければいけない。もう飯にする。このごろ起床後二時間以内に雲古が出なくて困る。水気が足りないからかな。野菜をもっと食ったほうがいいのか。ところでピーマンって意外と腐りやすいよね。いっけん腐りにくそうだからよけいにそう思う。シーサイドコーポラス、こねずみ駆け抜ける、港はいつも、魚のあぶらのにおい。

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