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スターリンとモーツァルト、世界の呻き声を酒の肴に、「男の乳首」という最後の秘境、
九月十七日
近代人は、ただ一回の読書によってすっかり底がわれてしまうような浅薄な書物の洪水のため、どの書物も結局つねにおなじものであり、一回の読書で読み了えうるものと考える傾きがある。が、事実はそうではない。このことを現代人もやがて徐々に悟るようになろう。書物のもたらす真の愉悦は、それを何度でも読みかえし、そのたびにそれが以前とは異なったものであることを知り、他の意味に、すなわち意味の別次元に出あうことのうちにあるのだ。
午後十二時二四分。柿の種(わさび)、紅茶。好きだった男の乳首の匂いを嗅ぎ続ける夢を見る。YMOのRYDEENが頭を離れない。ほとんど飲んでないのに台所でカラエズキを催した。こんなはずじゃ。なんのための節酒だ。なんのための前進守備だ。ほんじつ休館日。これ書いたら文圃閣行ってそれから石引温泉でも行くか。もう酒に金使わないもんな。ちかごろ深夜は橋本治の『蓮と刀』を読んでいる。この人の「王様は裸だ」と叫びまくるような真性包茎的文体と付き合っていると、そう叫ぶことだけにほぼ全力を注いでいるあんたも裸よ、とからかいたくなるわ。フルチンで物を書き続けた橋本治の「才能」に俺は嫉妬しているのかしら。まあいいわ。ILLAYのライブ動画がユーチューブにアップされていたので七回見た。セナ様が人間の姿をした観世音菩薩だってことは知っている。でもなんで菩薩が電子ドラム叩いているんだろう。他にやることないのか。衆生済度とか。きっとドラムを叩きながら「縁なき衆生」をどう救うかを考えているんだ。先般スターリンのドキュメンタリーを見て、彼がモーツァルトのピアノ協奏曲23番が好きだったことを知り、ついでにマリヤ・ユーディナというピアニストのことも知った。同曲を彼女が演奏したものがユーチューブにあったので聴いた。二楽章のアダージョを聴きながら「この凄みのある哀調と大粛清後の独裁者の孤独は相性が良さそうだ」と思った。「やはり古い音源には清澄な厳粛さがあっていいな」とも思った。しかし録音が古いというだけでどうして「なんか心に染みる」のだろうね。これは俺の「単純さ」のせいなのか。「感性」なんてのは単純なほうがいいんだ。モーツァルトのピアノ協奏曲はどれもいい。20番から27番までは特に素晴らしい。ぜんぶ神作。紅茶をもうワンティーバッグ分だけ飲むわ。酒飲まないんだからせめてカフェインくらい多めに摂らないと抑鬱の致命的急襲を許すことになりかねないわ。別に許してもいいんだけど。死に損ないだから。そういえばおとついの読売で「カフェインと甘味料を加えた水をマウスに与えると体内時計が乱れたとする研究成果」がまとめられたという記事を読んだ。だから何なんだ。俺はネズミじゃねえ。人間を倦怠や不安から救うためだけに存在している嗜好品を「科学的」に難ずるのはもうやめろ。きのうは嫌老の日、じゃなくて敬老の日だったらしい。総務省によると65歳以上の高齢者の推計人口は3625万人だって。こんな膨大な数の老人集団を敬えるはずがねえだろ。なに考えてんだ。「君もいつかは老人になるんだよ、そのときに敬われたいだろ?」「いや、いつまで生きてんだと罵られたいね、上っ面だけの敬意なんか血反吐が出るほど嫌いだ、おじいちゃんおばあちゃんいつまでも長生きして元気でいてね、とか言ってる又は言わされてるガキを見ると蹴とばしたくなる」みたいなやり取りをむかし友人としたことをいま思い出した。あのときの俺は幼児だった。いまも幼児だ。あのときよりももっと幼児だ。心はどんどん狭くなっている。人間というのは成熟すればするほど心が狭くなるものなんだ。世界一心の狭い人間にオイラはなりたい。だって「心の広い人間」にろくな奴いないでしょ。ただ鈍感で馬鹿なだけでしょ。そういう人間のスカスカ具合をオイラ嫌になるほど知ってんだから。まあオイラはもっとスカスカなんだけどね。もう昼飯にするわ。ウズラ炒飯ね。ゲーテのキンタマ。キンタマーニ。